明治神宮外苑再開発について

話題になってるこの記事を読んだ。倉本圭造氏による「明治神宮外苑再開発に私が”賛成”する理由」というものである。
書いてあることは大変に真っ当で、しかしこれはあくまで「ある視点」からの正しさに過ぎない。ということで別の方向からの正しさについて考えてみる。

先述の記事には、神宮外苑に設置されている老朽化した施設を建て替えるにあたっての、あるいは内苑・外苑の整備を継続するための資金捻出が必要であり、それをまず考えて両者歩み寄らないとね、という話をあちらこちらに目配せしながらそれなりに上手に書いたものである。

しかしまず、宗教法人であるから公金を入れられないから大変なのだ、という記述について指摘しておく。これは誤解である。
行政から宗教法人への支援は、当該支援の目的が特定の宗教に対する援助あるいは干渉になるか、というのを判断基準として可否の判断が下されるのが一般的だ。これを目的効果基準という(詳しくはググってどうぞ)。実際に何らかの被害を受けた寺社等宗教施設に対しての支援は無数に行われている。
特に明治神宮においては、宗教的な内苑と広く大衆に開かれた外苑とに分かれている。これは現在の在り方のみならず、歴史的にもそうであり、明治天皇と昭憲皇太后を祀る目的で造られた内苑、方や開催されなかった万博用地を明治天皇の葬儀の会場とし、その後明治天皇を広く顕彰する公園として造られたのが外苑である。またその造営についての基本書となる『明治神宮造営誌』(1930年)、『明治神宮外苑志』(1937年)の「誌」と「志」との違いにはおそらく後者には多くの人の志によって造られたという意図が込められている。造営資金も、内苑は国が、外苑は奉賛会が資金を賄っており、その意図は明らかである。
つまりこういった歴史的な意図や、現在のスポーツ公園的な面を見ても、外苑への公的資金の投入はやろうと思えばできるのではないか、という気はする(やらないのは神社本庁との関係からくる明治神宮の意向、あるいは外苑の売上が内苑の整備に使われることが政教分離に違反しかねない(特に天皇を祀っていることから外交問題に発展も?)、ということは考えられる)。

まあそれはそれとして、本記事で訴えたいのは、この再開発はなんのために行われるのか、ということなのだ。老朽化したから建て替えたい→お金がないからビル建てよう、というだけなのか。それなら神宮球場もラグビー場もぶっ壊して、全部ビルと商業施設にすればよいのである。そうすればその資金で内苑の森も安泰だ。
しかしそうしないのは、外苑の公的な価値を明治神宮やその他関係者も認めているからであろう。その公的な価値とは何なのかを、開発主体が示さないままに話が進もうとしているから問題なのだ、とわたしは認識している。あの開発計画を見ると、外苑における公的な価値は景観や自由に使える空間(土日の外苑はスーパーカーの展覧会めいた雰囲気や、広い道路などでの子どもたちの自転車の練習など、さまざまな催しが行われている)などにはなく、スポーツ施設と文化財たる絵画館のみにしかない、と言っているように思える。
そうだとすれば、それはかなり貧しい発想だ。

まず、外苑の歴史的価値というものが踏まえられていない。まずニューヨークのセントラルパークに範を取った神宮外苑のランドスケープデザインそのものが歴史的に貴重であること。明治天皇を顕彰するために神宮球場がバックネット裏からまっすぐに絵画館が見える設計になっているなどの、公園全体が合目的的に造られていること。そういったことはさておいて、お金がないからビル建てよう、というのはあまりにも浅薄である。
まず資金繰りの話があって、それに合わせた全体の計画を作るというのは、経済行為としては正しいが、文化的な行為としては正しくない。外苑は私有地ではありながらも、大いに公的な価値を持つ巨大公園である。そこではいかに価値を保存するのか、ということがまずあってから資金繰りのの話が出てきて、その上での折衝がなされるべきであろう。

上記記事には「「反対する側」がもっとやらなくてはいけないこと」として、以下の三点が挙げられている。
A・まず「現行案」が策定されて支持されている理由を理解する
B・「イコモス案」の実行上の課題がどこにあるのかを理解する
C・「イコモス案」の実行上の課題を解決できる方法を考える」
しかし先に述べたように、これよりも先に、現行案を提出した側が、なぜビルを建てなくてはいけなかったのか、これはどこに価値を置いたものなのかについて、もっと説明をするべきなのである。

明治神宮外苑は、宗教法人明治神宮が持つ私有地である。法の範囲で私有地で何しようと勝手だ、と言えばそれはそうだ。
しかしその造営には、国家の象徴であり最高権力者であった明治天皇を悼んで、多くの国民が資金と労働力を提供してきたという経緯がある(ついでに言えば神宮球場の建設費は東京六大学が奉賛試合を行い、その売上を寄付したというのもあって、現在野球における天皇杯は東京六大学リーグ優勝チームに下賜されている)。
こういったことを踏まえるのであれば、根本的な再開発にあたっては、その意図、意義などを広く国民の間で議論する必要があるはずだ。具体的な設計の話ではなく、どういう神宮外苑でありたいのか、それが最初になければならないはずで、お金の話はそれからだ。
繰り返すが、明治神宮の維持には多くのお金が必要で、そのためのビルなのだ、というのは理解はできるし、経済的な行為としてはシンプルで正しいだろう。ただこのような、非常に公的な性格を持たされて誕生した外苑は、それではいけないのだ。
だからやっぱり、現行案はクソだと思う。

伊丹安廣(※)が泣くぞ、まじで。


※伊丹は元神宮外苑苑長。大正末期から昭和初期にかけて六大学の早大でプレイ。神宮球場建設のための奉賛試合にも出場。当然、最初期の神宮球場での六大学リーグにも出場。神宮球場で行われていた時期の都市対抗野球にも出場し、その後早大監督としても神宮球場に立つ。戦後は焼け野原の外苑および神宮球場の再建に奔走、神宮球場にプロ野球を呼び込み、ナイター施設をつけた。つまり神宮球場昭和史そのものみたいな人。詳しくは伊丹の自著『一球無二 わが人生の神宮球場』を読もう。

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