創作ができなくなった

 かつて、あるひとが「本を世に出すということは、そのままでは人びとが本当に読むべき本に辿り着くのを妨げてしまうことになる」と言っていた。世の中には無数と言っていいほどの本が存在している。そして、ほとんどの本は忘れ去られる定めにある。ないよりもあるほうが良かった本を書くのはたいへん難しいことだが、ものを書く以上は、それを目指さなければならない。そしてあるほうが良かった本とは、ほかの本についての情報を提供してくれるものだという。
 こうした考えは、とりわけ学問の理念とひじょうに親和的だが、創作物においても同様の見解は成立するだろうか。世の中には無数と言っていいほどのコンテンツが存在していて、ほとんどは届くこともなく忘れ去られて、ないよりもあるほうが良かったものを作るのは難しい――成り立ちそうではある。では、あるほうが良かった創作物とは、ほかの創作物について情報を示してくれるものだろうか。

 学問の理念と親和的だと書いたが、これを敷衍してみる。本や論文――広く「文献」と呼んでおく――は互いに参照関係をもっている。ある文献は、先行する別の文献に対する批判になっており、また後続する別の文献はそうした議論状況の概観を示している等々。ひと括りにすれば、学問というのは、何らかの対象に説明を与えようとする大きなプロジェクトである。これはひとりでは到底こなせない。学問は共同作業として進められる必要がある。だから文献は、何事かを主張すると同時に、一種の作業履歴としての役目も果たさなければならない。論述を明快にして、文献表を示さなければならない理由は、知識の帰属を示すというよりもむしろ、見解形成の再現可能性を担保することにある。こうした事情は創作物についても同様に成立するだろうか。そんなことはない。創作物は、巨人の肩の上に乗るような仕方で創られるものではない――ように思う。

 こんなことを、ともすると冗長にすら映りかねない仕方で語るのは、じぶんが創作、とくにゲーム制作から離れて、しばらく大学で研究者になるつもりで勉強をして、やめて、そしていまあらためて創作をしたいと思っているからだ。しかし戻ってきた途端、なにをどうやって作ればいいのかわからなくなってしまった。

 創作することと論文を書くことは、当然違う。もし創作物がひとつの考えや議論に還元可能なものなら、それは創作物として出す必要はあまりない。論文にするか、そこまでの必要がなければ、エッセイにすればよい。しかし厄介なのは、創作物は主張ではないとはいえ、いくらかは何事かを主張しているものらしい、ということだ。あらゆる意味で主張を欠いた創作物は、「中身がない」と評されるのではないか。創作物が何らかの意味で主張であるからこそ、偏見が含まれているさいには問題となるのではないか。
 もちろんこれは主張と表現の混同であるかもしれない。もしそうなら、なおのこと、主張と表現の違いは何なのか、というのが目下の関心となる。主張するのではなく、なにかを表現するとはどういうことなのだろう。

 まったくわからないわけでもない。表現は他者の存在を前提としているはずだ。わかる人だけわかればいい、という仕方にせよ、共有は目指しているのではないか。そうであるならば、ことは単純で、主張は表現の一種なのではないか。根拠を付したり等、説得的な仕方での表現が主張にあたるのではないか。表現にとって、説得は必ずしも必要ないのではないか。

 ――そうかもしれない。しかし本当に最初に欲しかった答えはそんなものだったのだろうか?
 あるいは、表現も主張もじつは行為単独でみるなら同じだが、異なる目的手段の文脈に置き入れられるという可能性もあるだろう。ボールを投げる行為がドッジボールとバスケットボールで違う意味をもつように、違うゲームの行為なのかもしれない。だが、それは研究と創作は違うよねという当初の話以上の帰結だろうか。

 話が入り組んできた。こんなことを考えて創作物ができあがるわけでもないし、考えた結果、なにかが変わるとも思いにくい。
 発端の話は創作ができなくなった、というものだった。逆にできていたことがあるのか、という声もあるかもしれない。それなら「創作ができない」という悩みでよい。どうしたらできるようになるのだろう。何か抽象的なことが原因ではなく、時間やスキルの問題かもしれない。そうならとても悲しい。

 こんな声も聞こえてきそうだ。「本当に作りたいものがあるなら自然と手が動いているはずだ。そうじゃないということは、君はクリエイター向きではないんだ」 括弧つきとはいえ書いていて溜め息が出るような、おぞましいほど物を考えていない、それでいて凡庸な意見だ。相手にしたくもないが、いつかどこかで見聞きした複数人の声(それはインターネットで、匿名の人間だったかもしれない)が、キメラのように掛け合わさり、頭の中で響いている。健康のためにキメラは退治しておく。
 まず「本当に」という言葉に反証可能性がなく、少なくともまともに対話できる主張のかたちをしていない。どれだけ「作りたいものがある」と言っても何も持っていなければ相手にされない。この時点で門前払いのためのレトリック以外の何ものでもない。さらに、どうしたら手を動かしたことになるのかもよくわからない。未完成品でもとにかくがむしゃらに量をこなしている状態だろうか。それなら、これもたいていは「量が足りない。出直してこい」という方便になる。つまり門前払いが目的なので、建設的な話にはならない。というかそうなっているのを見たことがない。いちばん醜悪だと思うのが、追い払ったあげく人の資質に軽々しく言及する。じっさい、明示的に言われることは少なく、なにか諦めを諭すような仕方で言われることが多いと思うのだが。

 もっとも、この種の助言が出る背景はわからないわけでもない。入口であれこれと悩んで、アイディアや未完成品ばかりが手もとに増えていく、という人はかなり多いだろう。アイディアや未完成品で相談に乗るのは難しい。相談しているほうからすれば、「まだぜんぶ言っていないのに、どうして良し悪しを決めつけるんだろう」となるし、相談されたほうからすれば、「これだけじゃわからないな」と思いながらアドバイスすることになる。お互い疲れるぐらいなら門前払いもやむなし……たとえ門戸を狭めるだけの結果になったとしても……

 話がまた逸れてきた。創作ができない、と思っているうちにもどんどん作品が増えて、なかにはじぶんの言いたかったこともあったりして、創作する理由が少しずつなくなって、フィクションに対する視力もなければ、じぶんの感性もとりたてて見るべきところのない鈍いものだと気づかされ、こんなもの世に出して意味があるのか?と自問自答する。あるほうがよかった作品になるのか?
 そんなふうに思わなくてもいいのかもしれない。じぶんに対していちばん悪意を向けているのはじぶん自身なのだろう。なにも気にせず作ればいいのかもしれない。けど、そういう励ましを受け取るには気持ちがすっからかんとしている。いよいよ本格的に熱が冷めつつあるのかもしれない。

 なんだかじぶんの人生がじぶんのものではなくなったような気がする。じぶんの人生がどうでもいい、という話ではなく、むしろどうでもよくないのだ。もう少しどうでもよかったら、気にせずなにかを作ろうとしていたかもしれない。
 2022年は期せずしてそうやっていろいろ枯らしていく年だった。自然といろんな創作物から足が遠のいていった。なにか作りたいなあという気持ちだけはまだあるが、それだけだ。来年これが残っているかどうかはよくわからない。

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