見出し画像

[#11] 所有感の喪失

初出: MacPower 2001年 5月号

Mac OS Xが発売された。パブリックベータという開発途中の代物ではなく、正式な製品版としてのリリースだ。OS Xについては何回かこの連載でも触れてきたけど、あまり悪いことは書いてこなかった・・・・・・、と思う(笑)。それは開発途中のものに関して一般のユーザー向けに何か言っても変だし、妙に不安をあおるのもイヤだったから。しかし製品版ともなると話は別だ。文句も言うぞ。

というわけでOS X製品版の感想だが、実は難しい。悪いわけではなく、全体的に見たらよく出来たOSになっていると思う。これが正直なところだ。画面はきれいだし、動きはスムーズ、システムは安定、Perl [*1]は入っているし、開発環境はオブジェクト指向のCocoa。しかも、スリープからの復帰が速い。なんて感動的なんだ!

……でもね、不満。これだけのメリットとはかりにかけても勝るぐらいの不満がある。それは2つ。1つは変わりすぎたこと、もう1つは変わらなさすぎたこと。今月と来月は、オレのOS Xへの不満を語らせてもらう。まずは変わりすぎたことから始めよう。

OS Xで変更された点は何か?実際、内側も外側もほとんどすべてが変わったと言える。内側では、システムの内部構造が大きく変化した。アップル独自のテクノロジーの上に成り立ってきたOS部分が、すべてUNIXテクノロジーをベースにした安定したものに置き換わった。安定はユーザーにとっての大きなメリットだ。拍手喝采である。もちろんこの変化に不満はない。

一方の外側の変化とは、インターフェース部分だ。OS XのAquaは、いままでのMac OSのインターフェースとは大きく違う。そして、この変化がユーザーにとって一番大きな問題だ。何といっても直接触れるところなのだから。
オレが不満なのはここだ。いままでのMacのユーザーエクスペリエンスから変わりすぎているのだ。その代表がFinderである。論点を広げすぎても訳がわからなくなるので、Finderに話を集中させたい。これまでのMac OSとOS XのFinderの本質的な違いは何なのか?

Macが普及させたデスクトップメタファーという言葉がある。一般的な理解としては、画面を机の上に見立てて、書類やフォルダ一、ゴミ箱といった現実世界にも存在するものをアイコンで表現して意味を持たせることだと思う。しかし、実際にはもっと深い意味がある。本質は、空間的なインターフェースだということではないか?

「空間的」の具体的な意味は、例えばFinderではフォルダーをダブルクリックすると毎回同じ場所に開くということだ。その際、ご丁寧にどこに開いたかをズームアニメーションでユーザーに知らせてくれる。ユーザーはディレクトリーの階層構造を頭で覚えておく必要はなく、どの辺に開くウィンドウが目的のものかを画面上の2次元空間の中で視覚的に把握できる。これがデスクトップメタフアーの本質なのだと思う。現実世界でも初の上がどんなに散らかっていても、何がどこにあるかが目で見てわかる。それはユーザーの安心感につながる。自分が物事を掌握できている感覚、自分の物として認知できている感覚。これを所有感と呼びたい。

その一方で、OS XのFinderはブラウザーになったと言われている。ブラウザーとは必要なものを簡単に探せる機能だ。ユーザーは何も掌握する必要はなく、見たいとき、使いたいときに必要な手順で操作すれば目的のものにたどり着く。自分がどこにいて、何を操作しているかを気にする必要はない。

一見便利そうに思えるブラウジングという操作方法は、結局は所有感の喪失につながる。ユーザーにとって未知の領域であるインターネットで情報を探すことは、確かにブラウザーの役割だ。しかし、自分のマシンの中は未知の領域ではない。ユーザーの秩序で成り立っているはずだ。作った書類や取り込んだ写真は、すべて自分で把握してしかるべきもの。しかしブラウジングしている限り、これらの実体は見えてこない。これは果たしてパーソナルコンピューターのあるべき姿か?

OS XのFinderには、そんな不安が顕著に表れている例がある。1つのフォルダーの中身が2カ所以上に表示されてしまうという現象だ。1つのものを複数の表現で示してしまう時点で、これは一歩引いた視点から見たインターフェースなのではないか。OS XのFinderが何かよそよそしく、使っていて居心地の悪さを感じてしまう原因はこの辺にある気がする。

そう、OS XのFinderは居心地が悪いのだ。「散らかしてしまっていいのだろうか?」とふとためらってしまい、いままでのように気軽にデスクトップにファイルを保存することがはばかられる感じ。自分のものでない誰かに管理された場所のように思えるのは、決して仕組みを知ってしまった開発者だからではないだろう。これはいままでのMacにはなかった大きな違和感なのだ。

人が所有感を失っても不安にならないのは、全体を完全にコントロールできているかもしくはそもそもコントロールが不可能なときだけだと思う。例えば前者には携帯電話、後者にはインターネット上の情報が当てはまる。携帯電話は機能が決まっている小さな端末だから、全体を簡単に掌握できる[*2]。それゆえに、中身のデータの在り方や操作性には気を使う必要はない。逆にインターネット上の情報など、そもそも所有するという感覚から遠く離れたものの場合には、必要なときに探すことができればいいのだろう。
パーソナル・コンピューターはこうした区分けには当てはまらない、発展途上の曖昧な機械なんだと思う。だからこそ、使っている最中には安心感を得たい。所有する感覚を忘れるわけにはいかないのだ。

バスケ
シエスタウェア代表取締役。今回のテーマは、そもそも電子書籍とか音楽配信とか、そんなところから考え始めた。でも、前回紹介したトグさんとこの話で盛り上がったので載せてみました。自分の考えはまだちょっと曖昧なんだけどね。

[*1] Perl - UNIXで使われるプログラミング言語。インターネットのWebページでCGIを利用するときによく用いられる。
[*2] 全体を簡単に掌握できる - Java搭載の携帯電話とかを見ると、この前提はもはや成り立たない気もするが.……。

編集・三村晋一


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?