私的詩的読語

故人 ぼくのりりっくのぼうよみさん
2019年現在は、たなかです さん

同一人物なのだけど、活動としては、
ぼくのりりっくのぼうよみは、完了されてます。

彼を知ったのは、2年半ほど前。
知ってる人は、この若くて感性の鋭い天才の
吐き出す音楽を話題にしていたようだけど
僕自身は、年齢もかなり離れている為、
この ぼくのりりっくのぼうよみ(通称ぼくりり)
という名前も音楽も聞いたことが無かった。
僕が知らないだけで、この2年半前以前、
正確にはそこから、更に一年半ほど前から
世間では、話題になって注目されていたけど
僕の生きていた世界には、いなかったと
いうことだ。

たまたま、確か「サイタマノラッパー」だっけ、
Amazonプライムで暇つぶしに見てた時の
エンディングが、ぼくりりの曲だった。
その時は、映画の内容とアンマッチだなあ
くらいに感じていて、テロップで確かに
「ぼくのりりっくのぼうよみ」という文字も
見ているのだけど、気を衒ったニックネームを
使っているのだくらいに感じた。

その後くらいに、「朝焼けと熱帯魚」の
TVCMを見た。

おそらくは、ここがホントの出会いだったかも
しれない。

メロディ、歌詞、声 とても惹かれた。

ぼくのりりっくのぼうよみ
_何か意図あるような名前

誰なんだろう

後に、あの時の映画のテロップの名前と同一の人
と知る。

ひと昔前なら、いろんな音楽雑誌を読み漁り、
彼は、誰なんだと探すのだけど、
今の時代は、Googleるだけでこの手の情報は、
直ぐに手に入った。

彼が、二十歳前後の若者で、
3枚のアルバムを出している事を知った。

早々にそのアルバムを手に入れ、聴いた。
歌詞に溢れる感性と表現、そしてメロディが
とても気に入った。

何か、自分の古い友人ととてもイメージが
重なった。
型にはまらないというべきか、
僕自身が、知らないだけだったのかもしれないけど
新鮮で自由な印象を受けた。
古い友人も、世間のステレオタイプな型に
はまるのを好まず、
かといって世間ズレしてるわけでなく、
他人がというより、
自分がこうしたい、こう生きたいという人で
今も、そのように生きているし、
長らくお付き合いいただいてる。

そんな風に見えてたのは、僕の色眼鏡で
僕にとって、それだけインパクトをくれた彼は
その自由に見える音楽活動の中で、
かなりの苦悩をされていた。

こちらが、そんな事気付くはずもなく、
彼は、いろんな事を壊し始めた。

今の活動を最後と宣言した。
勝手に一人歩きしだした、
「ぼくのりりっくのぼうよみ」に、
STOPをかけたのだ。

衝撃的だった。
順風満帆で圧倒的な魅力で、
この何年もなかったくらい、
僕を惹きつけた彼は、辞職を決意された。

ラストアルバムに向けての楽曲は、
一つ一つが、心の吐露、
えぐるような歌詞と曲ばかりだった。

それでも聴かせてしまう実力は、
やはり非凡であるのだろう。

なんとか、ラストライブの一つ
関西で行われた「通夜」に行くことが
出来たのは、唯一幸いだった。

彼から学ぶことが、多い。
僕が、平々凡々と過ごしてきた日々を
見返すとネットやメディアの見方が
もう、変わってきていたことを
改めて彼の行動から知る。
ここに、「今」があって、
過去は、もうない。

いつまでも、サザエさんの終わりのない時間が
続くはずもなく、それを良しとしている、
メディアは、昭和を引きずって、
そんなオーディエンスだけを対象として
追いかける。

「今」を生きる若者が、そんなTVを見たいのか?

もう、メディアの在り方は変わってる。

そんな当たり前の事を気付かされ、
自分が、時代遅れである事を知らされた。

自由に生きる友人に憧れていたところが
自分にあり、自分はそうじゃないと思い込み
型にはまった生き方に染まっている事に
おそらく満足していたんだろう。

彼を知ってから、彼の曲を聴き続けている。

真似たいとかは思わない。
気づかせて貰えたと感じている。
感性や、生き方、
それは、自分のもので
他人に合わせるものではない。
だって、僕の人生だもの。

改めて、勉強しようと感じた。
知りたい事に貪欲になろう。
自分になろうと思った。

僕は、若くはない。
今更感は、多分にある。

こんな風に思わせてくれた
「故・ぼくのりりっくのぼうよみ」さん
「たなか」さんに
一方的に感謝し、彼の活動を応援したいのだ。

出来れば、
もっと自身の音楽活動やっていただけたら
といちファンとして期待しながら…。

本文は、未完です。




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