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Webサービスの個性は機能じゃなくルールで決まるというはなし

今日は最近のWebサービスについて思うことを、つらつら書こうと思う。

いつしかWebの主力商品は「道具」になっていた。

古き良きWebは楽しかった。毎日アクセスするのが楽しかった。
Yahoo!掲示板やアーティストのホームページに足しげく通った。更新されるのが楽しみで仕方がなかったのだ。だがいつしかWebの主力商品は「場所」ではなく、「道具」になってしまった。

Googleカレンダーはいまや必需品だし、スマホゲームは時間をつぶすのにはもってこいだ。美しい世界を知ることができるInstagram。欲しいものを安く手に入れられるメルカリYouTubeもスマホゲームに並ぶ暇つぶしの2大巨塔だ。名刺管理もSansanでラクラク。Dineなら見知らぬ異性とデートまでできる。

そしてこれはソフトウェアに限ったことではない。ハードウェアもまた、素晴らしい「道具」として登場した。MacBookは想像を形にしてくれるし、Pixel 3は世界の美しさを再確認させてくれた。たくさんの◯◯ペイでキャッシュレス社会は目前だし、いまやSuicaがあれば日本中を旅できる。Oculusはいまだかつてない仮想体験を提供してくれるそうだ。かつて望んだことはだいたい実現された。

でもそのおかげで・・僕らの何が変わったのだろう?

僕らが得られたもの、それは・・・

僕らが得られたものは、時間の節約。それだけだ。
かつて洗濯板がくるくる回るドラムに進化したときのように、僕たちは仕事を電気に任せたおかげで、自由な時間を得たのだ。

「道具」とは、手間をかけずに目的を達成するためのモノに他ならない。スマートな現代人にとって、切符を買うために並ぶなんてバカらしい。釘を打つために硬い石を拾いに行くなんてことはしない。

でもここで疑問が浮かぶ。
そうまでして得た貴重な時間を、我々はどう使っているのだろう?

結局のところ、これらの「道具」を使うために消費しているのではないか。YouTubeを見たり、メルカリを漁ったり。まるで閉ざされた村の経済活動みたいに。

こんなことのために、我々人類は道具を発明し続けてきたのだろうか?

便利さは、幸せとは関係ない

持って回った表現ではあるが、便利さは幸せとは関係ないのだ。人は慣れてしまうと、幸せを感じられなくなる。日本ほど便利な国はないが、同時に不幸せな国はない。「道具」は決して、人を幸せにはしない

ではどうすれば良いのか?
ネットを捨てて、農村で不便な暮らしをすればよいのだろうか?
それができる人は羨ましい。僕はそんなに強くなれそうにない。

「便利」ではないものが必要だ

便利さが幸せをもたらさないのであれば、答えは簡単だ。
便利ではないものを作ればよいのだ。

これは決して、使いにくいインターフェースや、メンタルモデルを無視したUXで良いという話ではない。そうではなく「便利さだけでは価値が計れないもの」を作ろうという話だ。

実のところ、世の中には既にこういったものがあふれている。映画や音楽、芸術や文学、スポーツやレジャーなど、いわゆる「趣味」というものは全てこれに当たる。学業やトレーニングも同じフィールドにいる。(ここでは触れないが、「訓練」も成長実感として僕たちに幸福を感じさせてくれる。)

僕たちWeb業界で働く者たちは、Webサービスを「趣味」と言わしめるまで昇華させればよいのだ。

決して概念の話をしているわけではない。状態目標は明確だ。「好きなバンドはMr.Childrenです」とか「仕事終わりはだいたいフットサルやってます」に並んで「趣味は◯◯(Webサービス)です」と言ってもらえる状態だ。

試しに「ぼくの趣味はFacebookです」とみんなに言ってみよう。これはなんだかむず痒い。僕らが無意識のうちにFacebookを「道具」と見なしているのか、違う理由があるのか。とにかくFacebookは候補から外して良さそうだ。

きっとそれは、「場所」なのだ

同じ理由で「Googleカレンダーが趣味です」も「ApplePayが趣味です」もやはり違う。「道具」は決して趣味にはなりえない。

趣味は大別すると、次の2つに分けられる。
「作品」OR「ルール」だ。

・「作品」は、ある商品そのものを楽しむもの
(例:映画や音楽、漫画、ドラマ、コンサートなど)

・「ルール」は、特定の規則に従うことを楽しむもの
(例:スポーツやレジャーなど)

IT技術は「作品」を作ることを可能にした。AIがレンブラントの新作を描いたのは記憶に新しいし、今後ますます発展していくだろう。映像化不可能と言われた映画も、きっと脚本をAIに読ませるだけで見事なCGで再現してくれるようになるはずだ。(その脚本もAIが書いたものかもしれない)

そしてWebサービスが担うべきは、きっと後者の「ルール」だ。なぜなら、プログラミングとは「ルール」に他ならないから。僕たちはプレイに集中すればいい。あとは機械が判定してくれる。ちょうどボーリングの得点計算みたいに。

そしてこのルールが適用される「場所」こそがWebサービスなのだ。それがきっと、僕たちを幸せにしてくれるWebサービスの姿なのだろう。

そういう意味では、テレビゲームはすでにWebサービスの何歩も先にいる。便利でもなんでもないし、独自のルールでプレイヤーを縛っているだけのものなのに、なぜこんなにも人を笑顔にするのだろうか。それは僕たちが原始的な感覚でそれを幸福だと知っているからだ。

「ルール」がWebサービスの価値を決める

「機能」ではなく「ルール」こそが重要なのだ。

Youtubeで考えてみよう。
機能だと「動画をアップロードできて、それを他の誰かが見れる」と説明できるが、ルールで言い直すと「動画しか上げられず、アップされたものしか見れない」となる。例えば、音声ファイルはアップできず、文字だけのブログも作れない。だがこのルールこそがYouTubeの価値なのだ。Youtuberなる職業を生み出したこのサービスも、投稿者にとってはれっきとした「場所」になっている。

かつてのネットを支えた(?)2ちゃんねるも「文字しか投稿できない」「1000のレスでスレッドが閉じる」というルールで成り立っていた。顔文字やネットスラングといった文化が生まれたのも、このシンプルなルールゆえだったのかもしれない。

いろんなルールを考えてみよう

Webサービスは何でも搭載できると思われがちだ。機能を追加し続けるとサービスは破綻することはよく言われるが、見た目よりも先に「ルール」が崩れることを気にする人は少ない。(果たして、毎月ルールが増えていくスポーツを見たいと思うだろうか?)

さて。ではWebサービスとしてどんなルールが考えられるだろうか。
例えば、「1日経つとコンテンツが消える」とか「5人集まらないと扉が開かない」とか「ページを開くと足あとが残っちゃう」とか。

こんな笑っちゃうようなアイデアも、実は超人気サービスとして成立している(していた)のだ。機能ではなくルールを決めるというのは、あながち間違いではなさそうだ。

(何のサービスかわかった方は、ぜひコメントください!)

ルールはいくらでも考えることができる。「便利さ」を考えるのはエスノグラフィやヒアリングが必要だが、「不便さ」を考えるのは自由で楽しい。

一見荒唐無稽な方が良いかもしれない。「1日開いたら3日はアクセスできない」とか「推しに課金したくてもできないからアクセス数で貢ぐしかない」とか。あとは「特定の地域でしか使えない機能がある」とか。・・・あ、これポケモンGOか。

きりがないのでやめよう。

おわりに

ただ、こんな気持ちを持っているのはぼくだけなのかもしれない。
みんなはルールに縛られたいなんて思っていないのかもしれない。

みんなは完全な自由を謳歌したいのかもしれない。
まっさらな空間で、頭に描いた道具を手にして「さあ世界を想いのままに!」と高らかに叫ぶのかもしれない。

ニーチェはそれを「超人」と呼んだ。
それはそれで良いのかもしれない。その社会はきっと理想の姿だ。

でもニーチェも「超人」になんてなれないことを知っていた。
人間はそんなに強くない。

だから僕は気持ちの良いルールを作りたい。
きっと最も支持されるルールが世界を制するのだ。

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