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ダンスの発表会をみる

 妻の勧めでダンス教室の発表会を見に行った。認知科学でもダンスは熟達研究、表現(創造性)研究、運動研究などの観点で対象とされている。例えば、素人と熟達者で動きがどう変わってくるのか、美しいと言える動きには何か特徴があるのか、そもそもどういう処理で身体動作を実現しているのかなど、研究の方向もさまざまだ。
 個人的には普段の研究の方向上、創造性や熟達の面で興味があった。受講生のチームによる発表もあるが、その後に講師の先生の演技もあるとのことで、両方をみることにはきっと得るものがあると考えた。実際、見てみるといろいろと思うこと、気づくことはあった。

 動きの美しさはやはり姿勢

  発表にはジャズダンスやバレエ、フラダンス、テーマパークダンスなどがあったが、受講生や講師の動きをみて共通して思うのは、動きの安定感だった。武道でも剣道や空手の経験者などをみると、普段から頭部の上下の揺れが少ない。私などは猫背で姿勢が悪く、本気を出していないオールマイトが山崎竜二の真似して歩いてるみたいなザマなので、傍から見るとゆさゆさ上下左右に揺れて見える。自分ではそれが普段の景色なので揺れているとは思っていないが、武道経験者と並んで歩くと一目瞭然だ。で、バレエなどを見ていて強く思ったが、バレエはつま先立ちでの移動をしている。つま先立ちでの移動をする場合、足首の負担が大きいのでよほど鍛錬していないと身体が縦に揺れてしまう。しかしやはりバレエをやっている人、熟練している人はそんなことを感じさせない滑らかな水平移動を見せる。足だけではく、背中、頭もそうした揺れを吸収するような動きができている。その上で行う跳躍は本当に浮遊感がある。

 余裕が隅々に、端々に表れる

 受講生で素人目からも巧いと思える人の演技には、意識が隅々まで偏りなくいきわたっている感じがある。具体的に言えば、何気ない所作の指先の形までカッコいいのである。さらに言えば、表情や目線まで表現に動員している感じがある。小学校の運動会で仕方なくやらされている演技などを見ると、子どもは腕の先はわりとだらしなくぶらぶら振っているし、視線もただ前をみたり、隊列確認のために風景を見まわしていたりする。指先や視線、表情まで使って何か表現してやろうなんてことはまず考えない。たぶんそんな余裕もない(疲れていたりやらされたりしているから)。
 以前の記事で、ネイマールの脳の使い方について紹介したことがあったが、ダンスにおいても、熟練していくと基本的な動作に割く注意力は少なくても済むようになり、それによって生まれた余裕で、それまで使わなかった身体部位や他の要因に注意を注げるようになるのだろう。その一方で、つい先日観たNHKアカデミアで、振付家のMIKIKOさんが振付指導の際に「体の中に梁を入れる」「身体で空間を建築する」という表現をしていたのを思い出した。こういう表現を使うことで、自身の身体の動きを掴みやすくし、注意力の節約につなげることもできるのだろう。人体がもつ無数の関節1つ1つに注意をばらまくのは大変だが、体で作るイメージ上の梁を自分の周りの空間に配置していくつもりで考えれば、「梁」1つに注意をまとめることができる。おそらくはこうしたダンスの世界にも、さまざまな「わざ言語」(生田久美子さんの言葉)があり、そのそれぞれに動作の実現を容易にする工夫があるはずだ。

 

ダンスをロボットにやらせても美しいと思えるのか?

 正確な動き、シンクロした集団の動作、アクロバティックで人体の限界に迫る動き、それだけでダンスの美しさが説明できるかと言うとおそらくは否だろう。それができるならロボットがプロダンサー並みに美しいダンスを再現することができるはず。少なくとも人間と見間違うようなアクロバティックな動きをするロボット自体はすでに完成している(たとえばアメリカのディズニー・カルフォルニア・アドベンチャーにはスパイダーマンのような動きで空中をカッとんでいくスタントロボがすでに実用化されている)。


 しかし、先にも触れたように、人間のプロダンサーは単なる身体動作だけでなく、表情や視線も表現の手段に使っている。人間そっくりの外見をしたアンドロイドは日本でも石黒浩先生の「イシグロイド」で有名だが、「人間そっくりだけど何か不気味な違和感がある」という人間らしさの「不気味の谷」を超えるのも一苦労という状況なので、表情や視線も表現の手段に使うアンドロイドやロボットはまだ大分先になるのではないかと思う。何しろ人間は相手の真意を探る時、表情や身振りの方を言葉以上に信頼する(メラビアンの法則と呼ばれる)ものなので、まずは対象(アンドロイド)に真意や心があると思い込ませるところまで到達しないと、人間並みの表現をするダンスアンドロイドは実現しないだろう。

 ひょんなことから観に行ったダンスの発表会であったが、人間の表現の奥深さを再確認できる良い機会であったと思う。





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