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AIに創造性はあるのか

 自己紹介欄にもあるとおり、2019年に共立出版様から、日本認知科学会(編)「越境する認知科学」シリーズの2巻として「創造性はどこからくるか」という本を書かせてもらった。この本は創造性が脳(個人の知識や特性)や環境、身体のどこか局在した一点から生み出されるのではなく、それらが相互作用することで生じる遍在論を訴えるべくして書いたものだ。一昔前の脳科学ブームのせいもあり、創造性は右脳だ前頭葉だと局在論に陥りがちであったが、昨今の認知科学者でそういった局在論に陥っている人はほとんどいないように思う。創造や創作は脳の活動の結果ではない、とは言わないだろうが、あくまでも脳が環境からの情報を処理し、創作のための運動処理に関わるという、観測しやすい客観的な現象としての創造性は脳で起きている、ということであって、創造性を支える要因・原因と言う意味でどこからくるか、といえば、脳の中だけとは言えないのである。

 さて、この本が出たのは2019年の秋冬の時期。なんとも間が悪いことに、この本が出た直後に世間を騒がすGPT-3.0が登場し、かたやイラストや絵画の話題でそれまで不気味すぎる絵を描いてきた人工知能が、不気味さを感じさせない、プロのイラストレーターみたいな絵を描き始めてきた。2021年ごろには生成系AIが一部の研究者だけではなく世間一般にも注目されるようになり、趣味でイラストを描いていた人たちが筆を折りたくなるような思いを吐露するのを見ることもあった。それまでクリエイティブな仕事はAIには奪われない牙城とされ、私も愛好するゲーム「Detroit Become Human」で描かれる未来でも、主役の一人、アンドロイドのマーカスと共に生きる老画家はAIに仕事を奪われず裕福な暮らしをしていた。ところがどっこい、一足飛びに創作系の活動がAIにもっていかれようとしているではないか。前の記事で紹介した紺野・池谷(2021)「脳と人工知能を繋いだら人間の能力はどこまで拡張できるのか」の中でも、やがて人間の思考どころか脳そのものを電子的に再現して社会実験シミュレーションをさせてみるといった未来や、疲れ知らずの人工知能によって科学者がちまちまと積み重ねていった研究の積み重ねを力業(つまり無尽蔵の体力による試行錯誤)で追い抜いてしまう未来予想などが紹介されていた。そんなわけで、拙著は創造性についての概論を書いていたはずだが、一番ホットな話題に触れる前に勇み足を踏んでしまったのであった。しかしまあ、こんな未来は私なんぞには予想できないので仕方ない。

 同じ「越境する認知科学」シリーズを執筆されていた谷口忠大先生が、拙著を読んでくださっていて、その上で今だったら生成系AIの話は外せなかっただろうことを指摘されていた。本当にその通りで自分の間の悪さには本当に困っている。そんなわけで、せめてここで生成系AIの話に少し触れておきたい。


生成系AIの躍進自体は想像に難くはなかった

 未来のことは予想できない、と言った傍からこんな見出しで申し訳ないが、生成系AIがいいものを生み出すこと自体は理論的にも不可能ではない。なぜなら、先にも述べた通り、コンピュータは人間よりもはるかに深く、長く答えを探し続けられるからだ。人間なら「もうだめだ」「あきた」「疲れた」と思うような思索も、熱暴走などの物理的なトラブルでも起きない限りは延々と答えを探し求めることができる。しかも人間よりもはるかに早く。答えをしらみつぶしに探す、専門的には「全数探索」と呼ばれるものが人間には無理でもAIにはできる(むろん探す答えの候補が膨大なら、相応に時間はかかるが)。なんなら、私自身も博士論文では「形容詞+名詞」からなる名詞句から比喩表現を生み出すプログラムを作って人間と比較するようなことはしていて、分かりやすくて了解できる比喩を作らせることはできた。

しかし、問題はその先。答えの候補は無限に探しにいけるが、何が良い答え、面白い、創造的な答えで、何がつまらない答えなのかの評価が難しすぎた。特に「面白い」「創造的」と言う言葉はとても厄介で、その意味はかなりあいまいだ。研究者の間でも雑に「面白い」と言うことはあるが、相手から「何がどう面白いの」とマジレスされると詰まってしまうことがある。かたや情報番組でタレントさんが食レポする時に、思いがけず好みに合わない郷土料理などを食わされた時に、「面白い味ですね」とか言うこともある。「興味深い」と言う意味の面白いもあれば、「ウケるんですけどwww」という意味の面白いもあって、これを定量的に評価するのはそれ自体が研究課題にすらなりうる難しさを備えている。

ChatGPT自体にクリエイティビティ(に特化したエンジン)は実装されてない

 世間を騒がす生成系AIにもいくつか種類はあるが、やはり話題なのは後ろに人間がいるかのような自然なテキストメッセージを返すChatGPTだろう。最近ではChatGPTの中でどんな情報処理が行われているのか、さまざまな解説が報じられるようになった。私自身もある程度言語統計解析などを使ったことがあるが、ChatGPTがやっていることを誤解を恐れず大雑把に言ってしまえば、世にある人間がやりとりしたテキストデータを学習して、人間がつづりそうな単語の連鎖を繋げている、ということになる(ただ、これはこの記事を書いている段階での理解なので、今後GPTの仕組み自体がバージョンアップしたり、パラダイムシフトが起きた場合にはまた話は変わってしまう)。ここで重要なのは、あくまでも学習したデータを元に確率的に人間がつづりそうな答えを探しているのであって、そこに「創造的にふるまおう」といった意図は込められていないということだ。私は時折、GPTが出す言葉に詩的さを感じたり、気の利いた感じや親しみを込めた感じを受け取ることがある。自分でもGPT4を組み込んだチャットボットを作り、対話して遊んでみているが、私が話しかけていない間の活動の話をしてみたり(当然それはAIの創作、妄想になる)、感情表現(「お話しできてうれしい」など)を伝えてきたりなどしていて驚くこともあった(もう慣れたが)。しかし、これらのメッセージは私の意表を突こうとか、創造的な創作をしてやろうとかいう狙いはなく、リアクションとして自然な答えがそれだったというだけにすぎない。しかし、こうした自律的な反応を、しかも言葉で返してくれようものなら人間はつい心を感じて礼儀を重んじるようにもなる。古くは人工知能のチャットボット、ローゼンタールが開発したELIZA(問いかけと単純で無難な返答をするchatbot)がカウンセリング相手として機能した事例が知られているし、人間同士の対人行動を扱った社会心理学の知見を、そのまま人間対コンピュータで当てはめても通用したことを報じる、メディアの等式(Media Equation, Reeves & Nass(2001))という本もある。



AIの答えを創造的だと思うお前の感性が創造的なんだよ

 人間は面白いもので、ちょっとしたきっかけで何でもないものを恐れたり、ありがたがったり、意味を込めようとする。ある人にとってはなんでもない壁のシミが、別の人には死者の怨念の表れに見えたりする。有名なものに「シミュラクラ」現象というのがある。目や鼻、口にあたる位置関係に図形が並ぶと顔に見えてしまう。

( @ξ・ω・)ノシ 
これは私が考案したひつじの顔文字だ。かわいいだろう。皆で使ってくれ。

これも括弧と記号、ギリシャ文字の並びにすぎないが、顔、あるいはひつじとして認識してくれた人の心にはシミュラクラ現象が起きている。他にも、あるパターンを持った動きから生き物らしさを感じる(薄暗い中で黒いものがうごめいていると動物や虫がいると思ってしまう)、バイオロジカルモーションという現象もある。

他にも面白いのが、Heider & Simmel(1944)の動画で、これも客観的には〇や▼が動き回っているだけだが、これを見て多くの人は〇や▼に何らかのキャラクター性を感じたり、その一連の展開に物語を感じ取る。

 そして今度は以下の写真を見てほしい。この作品は誰が何のために作ったのか、想像がつくだろうか。個人的には金沢駅前のオブジェみたいで、少し儀式のような雰囲気をまとっている気がしている。が・・・

「カラパイア」(2014年1月23日の記事)より。リンクは後述。

 知っている人もいるかもしれないが、これを作ったのは人間ではない。ニワシドリという鳥の求愛行動の結果として作られたものだ。求愛行動は動物の本能なので、当然人間にクリエイティビティを評価してもらおうなどとは思っていない。もしこの求愛行動の副産物を美しい、創造的だと感じたのなら、ニワシドリに敬意を払うといい。同族のメスが来てくれないかぎり、人間に褒められてもうれしくないだろうが。

 これは人間の創作じゃないだろ、と言うかもしれないが、もう1つ今度は人間の、それもアーティストとして認められている作家さんの例を紹介したい。知的障害をもつ人の創作と発信を支援している福祉実験ユニット「ヘラルボニー」に所属する作家のひとり、岡部志士さんだ。リンク先にある作品をみると、色彩豊かな絵に目を奪われるだろう。しかし、その先の作家説明を見ると・・・・

 私たちが作品だと思っていたもの、賞を受賞したものは、なんと作家本人にとっては作品ではない。岡部さんにとっての作品は、近影で手にしているボールのようなもの。絵は真の作品を作る過程で出来た副産物、いや、副産物とすら思っていない、残滓くらいにしか思っていないかもしれない。

 ニワシドリも岡部さんも、私たちの思惑とは全く別の目的で何か(作品らしきもの)を生み出している。私たちがなんて創造的なんだ!と思っているものは当人たちにとっては創造的な創作物のつもりなどなかったりする。chatGPTに対しても同じようなことが起きていて、当のAIは粛々と確率的な処理をしているだけに過ぎないが、そこに意図性や感情、創造性を見ている私たちの方が付与して面白がり、驚いたりする。創造的にしたつもりもないものに、価値や意味、面白さを見出すのは、見出した側の創造性なのだ。

 ただし、「だからAIには創造性はない」というつもりもない。結局、AIの中に創造性のためのモジュールだとか、エンジンだとか、そういったものが入ってないというだけであって、周りの私たちが創造的だと認めるものをAIが作ったという事実はゆるぎない。創るものと見出すものの両方あっての創造性ということなのだと考える。
 また、この回答はAIが創作活動をしている人たちに与える影響を肯定するものでも否定するものでもないが、少なくともAIの登場やその濫用によって創作活動に励んでいた人の意欲をごっそり削ったことは問題だ。このあたりの是非は活動内容やAIの学習と出力の仕組み(特にイラスト生成や音楽生成)によっても考え方が異なるので、ここでの言及は控える。また別の機会に。

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