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(読書)「映画を早送りで観る人たち」稲田豊史 著


 学生の卒業研究に絡めて稲田豊史さんの「映画を早送りで観る人たち」を読んだ。Youtubeの倍速視聴に代表される娯楽のファスト消費を考察するものだ。学生の卒業研究に絡めて、とはいったものの、当該の学生はむしろその逆で「最終回を見届けられない」若者であった。これは、途中で挫折するというよりも、最終回"だけ"見届けられない、ロスを恐れる心理だ。その心理を探るためにはどうしたものか、と思っていたらなんと逆の風潮の方が目立っているではないか。個人的には「最終回を見届けられない」心理も分かるし(いまだに「交響詩篇エウレカセブン」を最終回手前まで見ていたのに最終回を観ずにいる)、その逆に倍速視聴するのも分からなくはない。両者の思考の根底にあるものを考えるのに良さそうだとこの本を取った。

 この本で語られているのは、とにかく早熟を求める現代に生きる人々の、タイパ重視の生き方。勉強にせよ、遊びにせよ、仕事にせよ、何か突出した強みを持たねば、と急かされる中でかつて奇異な目で見られていたヲタが、ある種のエキスパートとしての地位を得て憧憬の目を向けられるようになった。で、自分も趣味や娯楽においてそうしたヲタになりたいが、アニメや映画は映像を伴う空間芸術でもあり、音楽、セリフとその間を駆使する時間芸術でもあるため、どうしても鑑賞には時間が必要になる。ヲタと呼ばれるような深い、広い見識を得るには相応の時間が求められるが、参入のスタートが遅れてしまうと周りに追いつくことは困難になる。そこにさらに昨今のサブスク制、見放題聴き放題のサービスが登場したことにより、タイパ、つまり時間対効果の高さが求められるようになった。そのタイパを高める方法の1つが倍速視聴機能というわけだ。それに加え、10秒飛ばし機能などもよく用いられる(倍速で重要なシーンを見過ごさないよう、進み具合の微調整をするのにちょうどいい機能らしい)。ものによっては「切り抜き動画」としてダイジェストにしたものだけをみるケースもあるらしい。

 これについて著者の稲田さんはインタビュー調査なども行い、アニメやドラマの飛ばされてしまう「間」にも意味があるのではないか、と当事者に問うのだが、「本当に好きなモノや大事なものならばそうならない」、むしろ「倍速させる、10秒飛ばしさせるようなものは、視聴者にその演出が伝わってない」という趣旨のある種の開き直りのような答えも返ってきたそうだ。


 これを間の意味が分からない無粋な輩と片付けるのは簡単だが、そうも言っていられないということで、昨今のエンタメは、見てすぐわかる(高品質の作画)、流し見でも追える(モノローグや字幕の多用)分かりやすさと、その一方でヲタの深堀りに耐えうる練りこんだ設定や背景知識、取材の両立を求められている。実際、「鬼滅の刃」や「ゴールデンカムイ」などは、映像が綺麗で見やすく、また登場人物の行動や思考のモノローグも多用されている(鬼滅の刃などは本来説明書きになっている箇所も登場人物のモノローグに変えている部分がある)が、その一方で、時代考証や地域文化などの取材も細かく行われていて、登場人物の名前や行動、場面設定に対する深い考察ができるように作りこまれている。死海文書だミノフスキー粒子だと、いきなり知らない用語が飛び交う「新世紀エヴァンゲリオン」や「機動戦士ガンダム」シリーズで慣れてきた身としては、やはりギャップを感じるところはある。とはいえ、私も子どものころみた特撮やガンダムシリーズを、最初から深く理解していたわけではない。ライダーやモビルスーツが戦う姿がカッコいい、というそれだけで見ていたことは否定できない。大人になって各話の趣旨や演出の意図を知って感心するということもある。そういう振り返って深みを知ることは今でもあるだろう。ただ、ダイジェストや倍速視聴で「後から振り返ると深い作品だった」という思いが起きるのかどうかは分からない。そもそも「後から振り返る」ことすらタイパ重視となると起きないかもしれない。どんな芸術にも何層もの表現のレイヤーがあるものだが、現代の名作は、素人目にもすぐわかる表面的なレイヤー(アニメなら作画、映像の美しさや声優の演技など感覚的な情報)にも、玄人なら分かる深い層のレイヤー(物語の設定や背景、時代考証や間接的な心理描写など)にも人を惹きつける工夫があるのだろう。

 こうした「タイパ重視」と周囲に合わせる文化、サブスクを実現する技術的、経済的背景がそろった結果、早送り視聴、10秒飛ばし、切り抜き動画と言ったエンタメの「リキッド消費」(作品のもとの形を鑑賞する側が自ら都合の良い形に変形させて楽しむ)につながったという指摘は、時間芸術の要素を含む作品を作る側には辛い部分かもしれない。丁度前回のエントリーで郡司先生の「創造性はどこからやってくるか」で名作に見るトラウマ構造、そしてそのトラウマ構造を前に自分の解釈や既有知識の外部に接触するのを待つという創造性のあり方を見たこともあり、このリキッド消費の楽しみ方は対照的に映った。分からない、なんだろうこれ、と思うトラウマ構造の前に自分のそれまでの理解や解釈、認識を見直すなんて作業は、速く誤解なく分かることを是とするファスト消費には合わないし、分からないところは切り捨ててしまうリキッド消費にトラウマ構造は成り立たないだろう。そして冒頭に挙げたようなファスト消費、リキッド消費をしてしまう層があこがれる「ヲタ」こそがこうした郡司先生の言うトラウマ構造を前に外部を呼び込んで考察する楽しみに興じられる人なのだろう。

 こうして考えてみると、卒論に取り組む当該学生は作品に穴をあけたままにしておきたい、完結させて考察の余地を失いたくないという点で、ファスト消費とは真逆のヲタクの素質があるのかもしれない。あるいは、他の人のスピードに流されずに我が道、マイペースでコンテンツを楽しむ姿勢を確立しているのか。いずれにせよ健全そうでなにより。




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