氷河溶融とエジプト、メソポタミア文明

2003年初エジプト観光。 何もかもがスバラシィ高度な文明! でも何だか変? ナイルの…

氷河溶融とエジプト、メソポタミア文明

2003年初エジプト観光。 何もかもがスバラシィ高度な文明! でも何だか変? ナイルの川幅狭すぎないか、ナイルの川幅・水量は桁違い大きかった? 素人高齢者が7000年前の地球温暖化氷河溶融と各古代文明の誕生秘話を解明。写真はヨルダン川支流の水無き溪谷の絶景!

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メソポタミアの古代史

メソポタミアは古代エジプトより葦船、青銅器、医学や建築などの分野で先進していたようです。ピラミッド建設を初めて成功させたエジプトの宰相 イムホテプが紀元前2660年頃にメソポタミアから多くの先端技術や知識を持ち帰ったことが知られています。 交易に欠かせないメソポタミアの葦船は紀元前4000年頃から建造されており、ペルシャ湾のdirumun(バーレーン?ドバイの可能性?)などを介してインダス方面などと海上交易していたようで、アフガニスタンのラピスラズリは特に貴重な交易品でした

    • なぜムカッタムの丘側からピラミッドを見下ろした画像が少ないのだろう

      エジプト3大ピラミッドの東北東方直線距離約15km、ナイル川対岸の丘の上にあるムカッタムの丘はピラミッド建造のための石灰石を採掘したところとして有名である。 私たちはその採石場が今も稼働しているということから、見学に行こうとした。少し驚いた様子であったが、チャーターしたタクシーの運転手さんはつたない英語力の私に反応して、ふもとのシタデルから曲がりながら丘を登って行った。少し登っていくと狭い道路に道路にゴミやホコリが舞い、私たちの車ぎりぎりに人が歩かざるを得ないというゾーンに

      • 古代ヨルダン川文明の存在

        エジプトとメソポタミアの間に隠れた古代文明が存在するのではないか エジプトピラミッド建築の粗で、宰相のイムホテプは紀元前2660年頃首都メンフィスからメソポタミアシュメール初期王朝時代の主要都市国家ウル、ウルクなどに科学研修・技術取得の旅にでて、土木・建築や医学などの当時最先端レベルをエジプトにもたらし、ピラミッド築造や人体から外科的な損傷少なく内臓や脳などを取り出し、ミイラ制作を多数経験することによって、エジプトの建築、医療技術を世界最高レベルに引き上げる端緒を築いた偉人で

        • 古代エジプトの歴史

          古代エジプトも紀元前2500年代の3大ピラミッド建設時代からアレキサンダー大王以降のプトレマイオス朝クレオパトラ7世の紀元前30年滅亡まであまりに長く華やかな歴史のため、どうしても時間軸が混乱してしまいます。ナイル川流域の氷河溶融と古代エジプト文明の関係を考えるためには紀元前600年代頃までで十分でしょう。 エジプト先王朝時代の2つの文化 古代エジプトは、1万年前からの地球温暖化によるナイル川の流水量の増減により盛衰した農業文明の一面とナイル川流域の巨大蓄積氷河の溶融本格

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          消える湖とシルクロード、死海

          上の地図はローマ時代のローマ街道です。このローマ街道の地図をみれば、当時の気候でどの地域まで人が生活でき、どこまで街が拡がっていたか推測できます。黒海から北の地域は地表を氷が覆い、穀物の生産も出来ず、まだまだ寒冷な気候で人が集団で住む「街」ができていなかったのではないかと推測できます。 氷河の溶融で出来た湖世界的な巨大湖には、稀に地球の裂け目で水深が1500mにも及び、何百万年、何千万年以上(バイカル湖、タンガニーカ湖は最も古く約2000万年前)も消滅しないものもあるが、一

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          氷河溶融とペトラ、アンマン、ジェラシュ、ボスラ、ダマスカス

          ナバテア人と隊商ルートペトラは、紀元前2世紀前半から現在のイエメン、サウジアラビア、ヨルダンを介してシリアまでをの隊商ルートを制したナバテア人の首都で有名です。また地中海側のガザとを結ぶ交易拠点でもあります。 2006年アカバ港から旧ヨルダン川の川底を北上していけば、きっと川の東岸にペトラ方面への入り口があるはずだとの仮説のもとタクシーで行ったのですが、舗装道路から外れるには4WDの車でないと無理!ということが判明しました。 Shobak(上の写真はShobakから北西ヨ

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          ディルムンdirumunはどこだ

          ペルシャ湾の交易港メソポタミア文明とインダス文明の船での交易ルートに、ディルムンdirumunという港を介していたことがシュメールの楔形文字に記録されウルクの神殿跡から発見されている。 メソポタミアからは錫、毛織物などを輸出し、宝石、瑠璃などを輸入していたらしい。紀元前3000年代のことであるからメソポタミアの葦船にて陸地沿いに季節風を利用しながら往復していたのであろう。 一般的にディルムンはバーレーンの港と推測されているいる。ただ、航海には新鮮な水が欠かせないことを考え

          バビロンとペルシャ帝国の盛衰

          バビロンを中心とした東西交易ルートという絶対的な繁栄基盤を保持しているはずの新バビロン帝国は、政務に興味のないできの悪い王のせいで紀元前539年東のアケメネス朝ペルシャ キュロス2世に滅ぼされペルシャ帝国に併合されてしまいます。その後ダレイオス1世はメソポタミアを東西に結ぶ従来の道路を改良延長し、西のサルディス(現在のトルコイズミールの近く)から東のペルシャの首都スーサまでの王の道を完成させます。 しかしこのペルシャ帝国も西のギリシャ方面への覇権拡大がギリシャ諸都市のの連帯

          バビロンとペルシャ帝国の盛衰

          Tel Akkoとハツォル(telhazor),ガラリア湖

          紀元前1300年頃まで、ヨルダン川の南北と地中海側の港町との東西交易を一手に担ったであろう、ガラリア湖の北16kmヨルダン川西岸の河岸交易都市ハツォルについてはhttps://note.mu/bc10000/n/n2bd78ea34727にて書きました。では当時の地中海側の港町はどこかと探せば、tel akkoに違いないでしょう。今のAcerの街の一部であるこのtel akkoの丘状の遺跡についてはイスラエルの学術調査が動画を含めもたくさんあり、しかも現在の海水面より5m以上

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          シュメール文明以降のメソポタミア

          シュメール文化からアッカド帝国シュメール文化はメソポタミアの南部のウルクなどの多数の都市国家時代で、農業を中心としつつインダス文明との交易、円筒印章、銅にイラン高原の錫を加えてより強い青銅器などを発明し発展した。紀元前2330年頃上流のアッカドのサルゴン王が下流のシュメールを併合しメソポタミアの統一を成し遂げアッカド帝国を築き、孫のナラム・シン王はさらに王国を拡大し道路網を充実させた。なお紀元前2120年頃に制作されたルーブル美術館蔵 グデア坐像は石への彫刻技術が飛躍的に向上

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          エルサレムとヨルダン川

          カナン、エルサレムの歴史と旧約聖書 古代エジプトは研究者の厚みと碑文などの資料も多く研究が進んでいるが、カナン、ヨルダン川地域は古代エジプトとフェニキア、ギリシャ時代の間にあり資料が少なく歴史的な解明が進んでいない。そのなかでヨルダン川流域の古代史の足がかりになっているのが旧約聖書の記述である。モーゼのエジプト脱出からシナイ山での十戒、ヨルダン川東岸地域荒れ野での滞留、カナンの地への出発、などはすべて旧約聖書の記述にもとづく歴史である。 旧約聖書は紀元前280年頃からエジプ

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          幻のヨルダン川の痕跡を訪ねて アカバ湾から川底を北上

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          メギドとガデシュの戦いの進軍ルート

          メギド(Megiddo)の戦いメギドはハイファ(Haifa)の南東方約25マイルに位置し、現在はもはや都市はなく小さな廃墟の丘が象徴するだけですが、かつては丘陵地域の平原でJezreel Valleyという地勢・交通上の要衝から、ハルマゲドンと言う言葉とともに、歴史上最も有名な戦場ゾーンであります。 メギドにはBC3000年からBC400年までに平和な時代はなかったといわれています。25回建設され、25回破壊されたと称せられているように、エジプト王国とシリアを介してメソポタミ

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          宰相イムホテプとメソポタミア、カナン地方

          イムホテプはピラミッド建設を始めたジェセル王の宰相(さいしょう)、 階段ピラミッドを設計・築造した総責任者で、それまでのマスタバ墳墓から突然ピラミッオを築造し、ピラミッド建築の祖といわれる。 メソポタミアからの帰化人であるとの説も有力なイムホテプが、メソポタミア方面のチグリス・ユーフラテス川沿い都市を視察して、その築造技術や医学など最先進科学を学んでエジプトにもたらした。チグリス・ユーフラテス川は長さや流域面積などでナイル川より小さく、氷河の蓄積総量も小さいため夏季の流水量

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          ナイル川流水量増減と古代エジプトの盛衰

          流域の氷河の溶融に伴うナイル川の流水量の増減が古代エジプト文明の盛衰を規定したのではないかという疑問をそれなりに調べてきたのだが、どうも初期王朝時代のバダリ文化からナカダ文化への移行を、農業から海外交易の萌芽と強く意識しすぎて、パピルス船さえあるか無いかの時代に、キナから紅海への東部砂漠に船旅ルートを創作してしまったようだ。 何もバダリが消滅してナカダ文化になったのではなく、ナイル川下流の両岸にはたくさんの有力集落があり、まだ中枢交易都市というのも生まれていないようで、相方

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          メソポタミアの神話とナイル川大氾濫の終焉

          メソポタミア文明のシュメール神話にエリドウやシュルッパクなどの下流5都市が冠水し、やがて衰退してしまう物語があるそうですが、考古学的調査で紀元前2900年から紀元前2750年にこれらの都市が大洪水で壊滅した時期と符合するらしいのです。 少し強引かもしれませんが、クフ王などの3大ピラミッドができたのが紀元前2500年頃で、その時代がナイル川水面が最高位から下り坂の時代だとすれば250年以上も違いがありますが、比較的近いと勝手に感じます。 イラン高原西部からトルコ東部一帯の高

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