宰相イムホテプとメソポタミア、カナン地方

イムホテプはピラミッド建設を始めたジェセル王の宰相(さいしょう)、
階段ピラミッドを設計・築造した総責任者で、それまでのマスタバ墳墓から突然ピラミッオを築造し、ピラミッド建築の祖といわれる。


メソポタミアからの帰化人であるとの説も有力なイムホテプが、メソポタミア方面のチグリス・ユーフラテス川沿い都市を視察して、その築造技術や医学など最先進科学を学んでエジプトにもたらした。チグリス・ユーフラテス川は長さや流域面積などでナイル川より小さく、氷河の蓄積総量も小さいため夏季の流水量増加が小さく、主要部分を石材で建築するとなれば遥か上流から石材を運搬するので運搬設備等の水準も高いものが要求され、エジプトのような巨大石造建築物を築造できなかったのではなかろうか。

チグリス川は標高差が大きく川の流れが急であるからナイル川のようにパピルス船や木造船などを遡上させることができないため、青銅器や土器など豊富な木材を利用した高付加価値生産もあるが、どちらかといえば穀物生産中心の繁栄にとどまったようだ。


メソポタミアではバビロンの塔が巨大建造物として著名であるが、ピラミッド建築より遥かに2000年も後の時代のようであり、ユダヤ王国のバビロン幽囚時代の建造とされるので、エジプトの建造技術からのようです。

イムホテプはどんなルートでエジプトとメソポタミアを往復したのか

イムホテプは紀元前2660年頃にどのようなルートでメソポタミアと往復したのでしょうか。紀元前3200年までのナカダ文明期にパレスチナ土器を入手出来ていたので、メンフィスからカナン地方までの交易ルートはあったのでしょう。

メンフィスからタニスを通つてガザ、ジャッファあたりまで海路、それから陸路が有力です。私の珍説は、メンフィスからスエズを通つて紅海に出て、アカバ湾を北上して現在のアカバ(当時は海の下ですが)を北上して現在の死海よりはるか北まで船で行き、それから陸路もありうるというものです。

世界最古の都市イエリコからの暗示

死海北岸の世界最古の都市「イエリコ」はBC9000年ごろから集落が発達し、BC7500年ごろには1.6ヘクタールの城壁で囲まれた区域に2000人の居住者がいたと言われ、当時としては画期的な大都市とみられています。
「イエリコ」は農業を中心とした都市であろうというのが通説ですが、イエリコが当時世界最大規模の都市であった基盤としてヨルダン川、ガレリア湖、死海、アカバ湾までがひとつの大河、V字型に大陸に切り込まれた入り江であり、これを紅海から地中海方面への東西交易の最重要航路とし、ヨルダン川西側に位置し、河岸港として優れた特性を備えた交易港として大発展したと考えられます。

古代都市ハツォル Tel Hazorからの暗示

ガレリア湖の北方約16kmでヨルダン川沿いの街ハツォルTel Hazorは紀元前3,000年から紀元前1,900年にかけて急速に成長し、紀元前1,900年から紀元前1,300年にかけて絶頂期を迎えたカナン地方の最重要都市であり、面積は200エーカー(長さ15マイル、幅3マイル)で宮殿を擁し最盛期には20,0000人以上が暮らしていたと推定されています。


エジプトとメソポタミアとを連絡する商業及び軍事上の交通の要衝であり、後のローマ時代にVia Maris(Way of the Sea)と呼ばれたルート上にあった。
紀元前13世紀ごろ破壊されて、紀元前10世紀以降はダビデ王、ソロモン王がエルサレムに都を造ったことなどから再び繁栄することはなかった。エルサレムは紀元前2,500年ごろ街ができ、紀元前1,000年ごろダビデ王のころから大発展した。
かつてカナンの地は北のTel Danから南の砂漠の町Beer Shevaまでと言われましたが、とりわけHazor,Megiddoなどの都市は重要であった。
ギャレリア湖の北にはHazor,Jdeidet Marjayoun(Lebanon), Quneitra(Syria)などの古い街がある。


Jdeidet Marjayoun(Lebanon)はレバノンとイスラエルの紛争地域にあるため考古学的調査が進んでいないが、水に恵まれた豊かな自然と、旧約聖書に出てくるEzekielの霊廟など古代から栄えた街である。またその南にもQlayyaなどの古い街がある。
Quneitra(Syria)はシリアの南西端部、ゴラン高原の要衝で水が豊かなことから石器時代から人が住みシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナの4カ国を結ぶ橋を意味する街の名前で紀元前2,250年からの記録がある古い街である。


もし紅海から死海を通りガレリア湖あたりまでヨルダン川を遡上して地中海側のハイファあたりと連絡できればエジプト、オリエント世界一帯において、交易ルートとしての重要性は格段のものであり、その大河の沿岸に世界屈指の大交易都市が存在した理由を証明できると考えます。


ヘロドトスも「歴史」第三巻9の284Pでアラビアに「コリュス」という大河があり、ペルシャ王 カンビュセスが紀元前525年アラビアからエジプトへの遠征の際に進路の途中で水のない地域を通るときにアラビア王に水の供給を頼んだので、アラビア王はその大河から12日間の旅程の距離を牛の生皮やその他の獣皮を縫い合わせて管を造りつなぎ合わせて水を送ったという伝承を紹介している。
この大河が紅海に注いでいると述べているのだが、現在までこの大河がなにに該当するのか不明であることからも、当時は誰もが「コリュス川」がどこにあるかわかることを前提とした記述からみても、この大河がヨルダン川から死海を介して紅海に注ぐものであった可能性があります。