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Tel Akkoとハツォル(telhazor),ガラリア湖

紀元前1300年頃まで、ヨルダン川の南北と地中海側の港町との東西交易を一手に担ったであろう、ガラリア湖の北16kmヨルダン川西岸の河岸交易都市ハツォルについてはhttps://note.mu/bc10000/n/n2bd78ea34727にて書きました。では当時の地中海側の港町はどこかと探せば、tel akkoに違いないでしょう。今のAcerの街の一部であるこのtel akkoの丘状の遺跡についてはイスラエルの学術調査が動画を含めもたくさんあり、しかも現在の海水面より5m以上に十分高く予想通りです。

紀元前1300年前まではレバノン山脈の堆積氷河の溶融に伴うヨルダン川の流水量が豊富で豊穣の大地と船での運搬の容易さからカナン随一の交易都市であったものが、水流の減少から船運交易機能の壊滅と共に地中海側港町のtel akkoもその重要性を喪失したと考えられます。tel akkoの南南西38kmのやはり古代地中海交易の重要な港DORがあり、今は海岸から700mばかり離れています。古代のDOR港は、北東方に進んでHAZOR DAMASCUS TADMOR(ローマ時代のパルミラ) RESAFAと古代地中海方面とメソポタミア中枢部を連絡する重要交易ルートです。

エルサレムと古代の港Jaffa

紀元前1000年からのエルサレムの大繁栄は、立地的な理由か王様の気まぐれかと不安になったのは、エルサレムは死海に近いものの標高800mの丘の上にあり、古代の死海の船運を当然標高0mを基準に考えていましたので、交易に非常に不便な丘の上での交易都市の発展は無理であろうと考えたためです。しかし死海の北端当りからエルサレムの北方4kmの平坦部ゾーンを介して地中海の港町jaffaへ至る重要幹線道路があり、この港を介してシドン、ティルスなどからレバノン杉をたくさんエルサレムの宮殿建設に運び込んだとの記述が旧約聖書関連にたくさんあるようですので、やはりエルサレムの街自身は政治都市ですが、その丘の裾部に重要な東西交易ルートを擁していたことは間違いなさそうです。

交易中心都市ハツオル TEL HAZORが紀元前1300年頃衰退し、ヨルダン川の水位以下でも死海までは船の航行が可能な時代すなわち紀元前1300年から紀元前1000年までが東西交易センターとしてエルサレムの地位向上期であり、紀元前1000年に首都となり政治と交易の両面で中枢都市となり、以降300年の繁栄の後、地中海・紅海の水位低下で死海までの船の航行が困難になり、東西交易センター機能が凋落、たぶんそれまでコスト的に劣勢であったメソポタミアの首都バビロンのペルシャ湾から地中海への整備された陸路でのロバでの一貫交易が紀元前670年頃から急伸、ついにはその利益の膨大さから紀元前605頃から新バビロン王家自身が交易上の重要ゾーンであるシリア、フェニキア、エルサレムへとその勢力圏を拡大、東西交易ルートの独占を確立し、農業生産力減退に伴う乱世から巨大交易帝国を確立したのでしょう。

紅海の海水面低下

ジブラルタル海峡とスエズに挟まれた地中海はナイル川等からの流水量低下に伴う海水面低下については紀元前2050年ごろから急速に進行するでしょうが、地中海には北の黒海に流れ込むドナウ川、ドニエプル川などの大河があり、これらは北にあり氷河の溶融が遅れるでしょうから、急速な地中化海水面低下を遅らせる作用が考えられること、また紅海は東のイエメンとジプチのところで非常に狭くなっているので、紀元前1300年頃のレバノン山脈の氷河蓄積の払拭に伴うレバノン川の大幅流水量減少にもかかわらず、ある期間まではスエズを介した地中海からの海水流入によりその海水面低下が緩やかに保たれた可能性はあるでしょう。

紀元前670年頃まで死海まで航行できていたのでは、エーゲ海の交易都市ミレトスが海水面低下に伴う港の機能喪失で滅んだのは紀元前3世紀頃なのですから。現在標高マイナス418mの死海と標高マイナス213mのガラリア湖は紅海の海水面がわずかに上がっても遠くまで船で航行できるはずです、特に死海までの船での航行は検証するべきです。2006年にアカバ港から北上して検証に出かけた私たちは、途中の検問所でタクシー運転手さんと職員さんのひそひそ笑いに、25kmあたりで自らの無謀さと無知にしり込みし、頓挫しました。