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10/12 : 怒りについて

怒りについて、私は向き合っていかなければいけないと思う。

わりとなんでも受け入れてしまうから、そこまで日常生活の中で怒りを感じるシーンはない。怒りの前に、諦めてしまう。

オーケー、あれができないなら仕方がない、できることで賄おう。
オーケー、あなたはそういう人ね、なるべく触れないようにしよう。
こんな具合で。

だから私が怒りを露わにするときは、自分や大切な人たちに害意が及ぶときが主だ。
反射的にキレる作法は地元の不良たちを見て覚えた。
睨む角度、声の大きさ、表情の歪ませ方、多少なりとも心得ている。それらは私を醜くするけれど舐められるよりはずっといい。

ただ、怒りを見せる人に対して、世間は距離を置く。

個人間の怒りならそれでいい。道端で不届者を撃退するとき、それほど応援勢力はいらない。こちらが抵抗の意思を示せばだいたいは片付く。

問題は、多くの人を巻き込んで、物事を変えていかなければならないときだ。

たとえば環境問題、たとえば同性結婚、たとえば憲法改正、たとえば在沖基地、と
挙げだしたら止まらないような、考えることさえ面倒な、あらゆる人を巻き込む物事。

これらには必ず、怒っている人がいる。状況を変えようと烈しく抗う人がいる。
その人を見て、心を動かされる人もいれば、冷笑一辺倒な人もいる。

いま、かなり、後者が増えていると思う。

情報がつねに錯綜していて、悪意あるフェイクもそれによる誤解も増えている中で、「事実をもとに状況を判断して自分の立ち位置を決める」ということが本当に困難だ。実際、週に2回くらいは惑わされている。
だから、何も言わずに皮肉屋を演じる方が容易いのだ。

それはわかっているのだけれど、私は醜かろうと愚かであろうと必要なときに怒りを表せる大人でありたい。ただしその怒りが、反射的なものだけでは不十分だ。反射的な怒りは反射的な冷笑を招いて終わりだ。

私にとって大事なことは、静かに、穏やかに、持続的に、クエスチョンを掲げることかもしれない。

はじめの1回は、反射でもいい。
「は? おかしくない?」でもいい。
その反射神経も非常に有効だ。
ただ、「おかしくない?」に共感できない人たちを責めると対立が始まる。いまわかることはそこまでで、忘れたくないから残しておく。

活動家になるつもりはない。でも傍観するほど無責任でもいられない。

10月12日、台風のただなか急に与えられた余暇で、不穏な感覚が鋭敏になっている。

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