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クローゼットに鮭

文学フリマをきっかけに知った龍翔さんの、短歌連作『クローゼットに鮭』。
50首の短歌とそれらに対する3つの批評で構成されている。


文学フリマで頒布していた『蝉は泣かない』は、行きずりの関係が抑制のきいた表現で歌われていた。夏の歌、雨の歌が多いけれど、心根は乾いている印象を持った。

反して『クローゼットに鮭』は、春の、新しい生活の歌だった。新しい生活にはパートナーがいる。そのことがまず、私には嬉しかった。見も知らぬ他者でも、誰かの生活が喜びの中にあることは嬉しい。たとえそれがぎこちなくても、期待と不安が入り混じっていても。

聞きなれぬ駅の名前の多くしてきみの名前を唱へてゐたり

自分を助くお守りのように名前を唱えるほど、大切な人と生活がともにある。
『蝉は泣かない』と比べて孤独感の濃度がぐっと低い。
ただしそれでも完全に孤独が消えることはないし、むしろ大切に思いたいからこそ立ち現れるままならなさ、社会と自分たちとの隔絶感は、今作の方が強い。

その分、湿り気というか、通奏低音として音のない嘆きがあるような気がする。
評者のひとり、江戸雪さんが「あたたかなさびしさ」と指摘していて、その表し方がしっくりと馴染んだ。

私は過度に人への執着を語る作品があまり味わえないのだけれど、読んでいてくるしくなるようなところがなかった。

短歌の切れ味のよさ、感情を生のまま出さない表現のおかげもあるし、「わたし」と「きみ」の関係だけに終始しない連作の効果だとも思う。

まだ2作しか読んでいないけれど、龍翔さんの連作には自分と自分が見ている相手、自分たちに直接影響する周辺の関係者、以外の人物がささやかに登場する。

ブランコを高く漕げどもお互ひの背中は見せぬ少女と少女

見ている景色のひとつとして、そこに主人公の投影や何かしらの感情はありそうでも、その歌があることで「わたし」と「きみ」の閉じた関係性から少し距離を取ることができるような気がする。

私にはそれがちょうどいいバランスだったが、逆に言うと、「わたし」と「きみ」との関係性にクローズアップしつつも周りの風景も目に入ってしまう、主人公の不自由な冷静さの表れなのかもしれない。

一番好きな歌を挙げる。

休日のペットショップで叶はない夢をきちんと諦めてゆく

「わたし」と「きみ」とでは叶えられない夢がある。そのことを自覚し、それでも夢に似た何かを求めて来たのが休日のペットショップなのだろうか。
夢に似た何か、決して夢そのものではないものを直視することは堪えるはずなのに、「きちんと」諦めて次善を見据える。

真面目さと悲しさとそれでも生活を続ける意思が感じられて、好きな一首だ。

この作品は、(少なくとも私が知ったときは)龍翔さんがTwitterで希望者だけにPDFデータのリンクを送っているのを見て、私も受け取らせてもらった。

文学フリマと違い、開かれた場所でふと手に入れるのではなく、ひっそりと内密に手渡された気分だ。
その違いに何か意味があってもなくても、ここでタイトルの『クローゼットに鮭』に触れるのは野暮に思えるので、控えておく。

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