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ぼくたちが戦争より好きなもの

早稲田松竹に感謝を。半年ぶりの映画館がここで本当に幸運だった。

ぼくたちが戦争より好きなもの。
そう題して組まれた2本の映画『ジョジョ・ラビット』と『Swing Kids』、選んでくれた方に礼を伝えたい。
最低限の背景知識もおそらく不十分で、半分も理解できた気がしないけれど、それでも4時間あまりノンストップで前のめりだった。

10歳の少年が暮らすドイツの街が舞台の『ジョジョ・ラビット』は、最後のひと場面以外まったく戦地を描かなかったことでより残酷さが際立っていた。

殺しは好きですと宣いながら、言葉ですら人を傷つけることに慣れていない少年の愚かさと愛らしさ、目を背ける彼の頭を引っ掴んで、絞首刑にされた死体を「見なさい」と直視させる母・ロージーの強さ。

単なるナチ信者だったジョジョが、自身の「不具」(映画での表現をあえて引用する)と母の秘密の抵抗を経てどんどん複雑になるのが見ていて伝わった。

ロージーは、ナチスに反旗を翻すことで息子がひとりになることを考えなかったのか、と一瞬だけ疑問に感じた。考えなかったはずはない。
ならばなぜ、と問うて気づいた。ドイツは負けると言い放った彼女はおそらくずっと先を見ていた。ユダヤ人も生きられる戦後を。

アーリア人こそが、いやユダヤ人こそが、と言い募るジョジョとエルサのような子どもたちに、人種的優劣のない未来を少しでも早く贈るための行動だったのかもしれない。

『ジョジョ・ラビット』で大きな意味を持つダンスと靴のモチーフは、そのまま『Swing Kids』へなめらかにつながる。

朝鮮戦争下の捕虜収容施設で結成された寄せ集めタップダンスチームの、隔絶を越えた友情映画と見せかけて、震えるほど容赦がない。
湧き上がる高揚のあとに、地続きで泥を流し込まれるような展開が幾度もあった。

この映画の主題を、芸術による民族や思想の超越に置くこともできるだろうが、私はむしろ簡単に心が通じ合ったりはしない、というふうに受け取った。
確かに越境の瞬間はあった。でも決して無条件ではなかった。相手の尊厳を侮る態度を改められなければいくら踊っても同じこと、何重もの差別、憎しみが打ち返され打ち返されて、暴力に行き着いてしまう。
そしてつながり合えたとしても、あっさり断ち切られてしまうということを苛烈なまでに突きつけてくる。

披露される数々のダンスの中でも、「稼がなきゃ!」で始まる序盤のステージは一等好きだ。一触即発の空気を音楽とダンスで水に流させる、それも誰かのためではなく、自らの食い扶持のために。その逞しさに拍手したい。

言うまでもなくラストステージも腹の底から揺さぶられた。敵国に宛てがわれた見せ物の舞台で、それを承知して床を叩き鳴らす彼らの爆発を見た。そして終幕。ギスの兄はどこまでわかっていてやったのだろう。

黒人兵のジョンソンと通訳のパンネが交わした"ファッキン イデオロギー"が、安易に投影なんてしちゃいけないけれど、私には別の意味に聞こえた。ジョンソンが家族を残してきた沖縄で、いまでもイデオロギーを越えようとするうねりがある。

『ジョジョ・ラビット』も『Swing Kids』も、同じ地に住む人々の争いと、屈しないための芸術やユーモア、それを見ている子どもの視点が共通している。
どこまで気高く、どのように勇敢でいられるか問われていると思う。

人を踏みつけるためではなく、鉄柵に遮られているとしてもぎりぎりまで歩み寄るための靴が必要だ。

この2本を選んでくれた、早稲田松竹に改めて感謝を。

https://t.co/Taaib7DFEF

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