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出版社と文字のチカラ

天理教の出版部門である道友社から出されている出版物は様々あるけど、中でも『みちのとも』と『天理時報』は天理教信者にとって、最も馴染みのある出版物やんね。
以前、おぢばから遠く離れた地に住む信者さんと電話で話しとった時に、「会長さん。家に届いた『天理時報』や『みちのとも』を手に取ると、おぢばの香りと暖かさを感じるんですよ」と嬉しそうにゆーてくれて、こっちまでホッコリしたけど、事程左様に『天理時報』は単なる新聞ではのおて、おぢばの空気と理を運んでくれる、かけがえのないものなんやと思う。
『みちのとも』にしても、ほとんどの方がその掲載内容に一点の疑問も抱かず、「理の声」と信じてはると思うねん。
そしたら、そこに掲載される内容が吟味されるべきであることは論を待たへんと思うけど、個人的にはここ数年、掲載内容に苦言を呈したくなることが増えてきてんねん。

ほなここで道友社の創設の理念と在り方。また出版物、特に『みちのとも』『天理時報』を編集する者の心得などについて、三代真柱による訓話が残されてるので紹介しますね。
立教154年(1991年)9月25日に天理市民会館でおこなわれた、天理教道友社創立百周年記念全国社友大会におけるお話からの抜粋です。
まず、『みちのとも』発刊についての言葉。

『みちのとも』の発刊にあたって、初代真柱である私の祖父は、
「今までは、皆も暇があったから、部下教会に巡回して教理を説き明かしてきたが、これからは本部の用も急がしくなるので、そうそう教会巡視も出来なくなる。道の友は、将来教理に関する説話を満載して、信徒一般に心の糧を与えるようにせねばならぬ。若し一言でも間違えば、多くの人にそれだけの誤りを伝える事になるのであるから、これから十分注意して、正しい教理を流すようにせよ。」
と語られたと、これは『真之亮伝』に出てくるのであります。

『真柱訓話集』第五十一巻(立教百五十四年)P1009~P1010

と、三代真柱の祖父にあたる初代真柱が、信者の心の糧となる教理を与える『みちのとも』の創刊の理念を語らはった上で、そこに書かれる内容には一言の誤りも許されへんてことを強く指示された。っちゅーことを明らかにしてはるねん。
また、

現在、『みちのとも』の発行をはじめとして、道友社が扱う業務内容は、百年前にはおそらく考えらないほど広がっているのであります。それはそれで大変結構なことなのであります。だが一方、広がれば広がるにつれて問題は増え、その中でも複雑なのが、私は人の心であろうと思うのであります。
業務内容が広がり、編集が多岐にわたると、それに人々が増えるのは、自然の勢いでありますが、この人々が全員、教内における道友社の立場をどこまで理解しておるだろうか。また、道友社に寄せてくださる教内一般の人々の気持ちを、どれだけ汲んで知っているだろうか。

『真柱訓話集』第五十一巻(立教百五十四年)
P1015~P1016

と懸念を示した上で

本日、私は皆さん方にお願いしたいことは、まず、それぞれが百年前に身を置いてもらいたい。百年前『みちのとも』を発行するにための道友社として発足したということ。そうして教内全般に正しい教理が行き渡るよう『みちのとも』が発行されることになったということを、改めて認識、確認してもらいたいのであります。
私は、『みちのとも』はその普及性から考えて、『みちのとも』が及ぼす教内への影響は非常に大きく強いものと、皆さん方はいつも心に治めていなければならないと申したのであります。決して独走して、道友社の、教内全般の、一手一つを乱してはならないのであります。また私は、記者は自分が書く記事に対しても、歴史に対しても、まず謙虚であってほしい、ということも願いたいのであります。もしも、自分の取るに足らぬ経験のみを非常に重要視して、人々の言動を推測したりいたしますと、時たま誤った視点からものを眺めて、そうなると物事の真意なりを見損なって、心ならずも大勢の人々に誤りを伝えてしまうという事態をも引き起こしかねないのであります。
『みちのとも』や『天理時報』の記事は、それぞれの、言わば時代を物語る文献ともなって、後の世に様々な出来事の証拠を示し、たすけ一条の話の台を思索する道を提供するようになるのであります。

『真柱訓話集』第五十一巻(立教百五十四年)P1016~P1018

と、その編集態度と方向性について結構な勢いで厳しく戒めてはる。
創立100周年ていうおめでたい席にしては「え?」て思うほどキツめの言葉やね。
なんぞ心配になるようなことでもあったんやろか?
とにかく、この三代真柱の言葉を知った上で、昨今の『みちのとも』や『天理時報』に掲載される文章を眺めた時、一抹の不安を抱くのは私だけやないと思う。三代真柱の懸念が、すでに現実化してるような気がするねん。
たとえば、以前に答えない教団と『天理時報』のご乱心でも書いたけど、『天理時報」8月10日号【視点】には「お供えの本来の意味を知る」と題した記事が掲載されとるよね。
これは安倍晋三元首相が銃撃により亡くなった痛ましい事件と旧統一教会について書かれたものやけど、その一部を引用するね。

安倍元首相

さらに、親神様のお働きにより病気や苦しみから救われたと自覚できたとき、おのずと感謝の念が湧き、何らかの方法で報恩の意志を表そうとする。
それを行動に表すとき、参拝、ひのきしん、ひいてはにをいがけ、おたすけとなり、形で表せば物や金銭を供えることになる。あるいは、救済を願うために、こうしたことをする場合もあるが、親神様は、その行動や物に込めた真実を必ずお受け取りになり、さらなるご守護を下さる。
また、こうして捧げられた行為や金銭などは、人々を陽気ぐらしへとたすけ導く本教の活動に生かされていく。
今回の事件は、道の者にとって、お供えの本来の意味を再確認し、人にも懇切丁寧に説明できるように示された節とも感じる。

『天理時報」8月10日号「視点」

この文章の太字(筆者による)部分をよく読んでみてくださいな。
救済を願うために金銭を御供えするっちゅーのは、教祖が戒められた「拝み祈祷」そのものと違うんかいな。
あらためて「信徒一般に心の糧を与えるようにせねばならぬ。若し一言でも間違えば、多くの人にそれだけの誤りを伝える事になる」っちゅう三代真柱の言葉を噛みしめてみてほしいわ。
また安倍晋三元首相が銃撃され亡くなるという痛ましい事件を、教団ファーストな独善的解釈によって
道の者にとって、お供えの本来の意味を再確認し、人にも懇切丁寧に説明できるように示された節とも感じる。」
と前向きに総括するとか、あまりにも不謹慎で身勝手なんちゃいまっか。いやしくも宗教団体が抱える出版社が、「神様が殺人事件をもって御供えの本来の意味を再確認させてくれた。」ともとれる文章を公に晒すなど、無節操にもほどがあるっちゅうもんや。
三代真柱の
「記者は自分が書く記事に対しても、歴史に対しても、まず謙虚であってほしい、ということも願いたいのであります。もしも、自分の取るに足らぬ経験のみを非常に重要視して、人々の言動を推測したりいたしますと、時たま誤った視点からものを眺めて、そうなると物事の真意なりを見損なって、心ならずも大勢の人々に誤りを伝えてしまうという事態をも引き起こしかねないのであります。」
という言葉が蔑ろにされてるんちゃいますか?
もっとも、表統領はんによる

「おつくし」についても、しっかり説かねばならない。「おつくし」ができなくなると、たすかる道が途切れてしまうからである。「おつくし」によって、たすけてもらった経験があれば、その理が分かる。 
 説く上には「おたすけ」をしっかりすることが前提となる。「お金のことは言いにくい」と避けていては「よふぼく」は「おつくし」の意味がますます分からなくなる。 
「おつくし」は「命のつなぎ」であり、親神様にお受け取りいただく真実である。 

『みちのとも』 立教百七十九年十二月号 P28~P29
おつくしは命のつなぎ

っちゅう歴史的迷言を天理教の機関誌であり旗艦誌でもある『みちのとも』に恥ずかしげもなく掲載してしもたんやから、そもそも御用出版社としての教理理解と危機管理能力、そしてコンプライアンスに対する知見を著しく欠いてはるんかも知れへん。
「おつくし」は「命のつなぎ」であり、親神様にお受け取りいただく真実である。 
なんて言葉が、旧統一教会の献金問題が世を騒がせている今、果たして世の中の批判に耐えうるとは思われへんねんけどな。

さて、ついでにとゆーては何やけど、この機会に天理教婦人会が発行する機関誌『みちのだい』にも言及してみますわ。
道友社が発行するものとはちゃうけど、天理教教会本部から発行を許された冊子やったら、『みちのとも』同様に三代真柱のいう編集姿勢が求められて当然やと思うねん。

『みちのだい』の中に、婦人会長による

国の教育方針の影響を受けるといこともあるのでしょう。戦後だんだんと欧米化が進む中での思想の変化もあり、昔から受け継がれてきた日本の精神というものが希薄になって、仕込みやしつけがしにくくなるというのは仕方ないことなのかもしれません。しかし信仰的な考え方、信念というものは、世上の思想や風潮に左右されずに、変わりなく伝えなければなりません。

『みちのだい』2022年5月号
躾と日本文化

という言葉が掲載されとるね。天理教婦人会の『みちのだい』2022年5月号を読んで感じたことでも書いたけど、欧米化を害悪と決めつける発想。今どき欧米化による恩恵を享受してへん世代など、天理教内にも珍しいやろ。
また日本の精神が欧米の文化や精神を凌ぐ高尚なもんやという根拠無き決めつけ。これはなんやねんな。日本は必ずしも欧米化したわけとちごて、欧米の文化を柔軟に取り入れ、現代日本独自の新しい日本文化と精神を作ってきたんちゃうんかいな。という私の見解はさておき、欧米化を嘆く民族主義的思考は「世界一れつ兄弟」の教祖の教えとは相容れるもんと違うと思うで。
あるいは「世上の思想や風潮」という、未信仰の方たちが懸命に生きてる社会を見下すような表現についても私は危惧をおぼえとる。
かかる発言を読むに及んで、くだんの『YOME-YOME』のような冊子が登場するのもむべなるかな、ですわ。
とある大教会長夫人が言うてはったけど、本部でジェンダー平等を語ると、意外なことに女性から反発される、っちゅうことでしたわ。婦人会長はんの発言を見たら、その理由も分かる気がするけどね。
ジェンダー平等の真の敵は、ほんとはそうした女性たちなのかも知れへんね。知らんけど。

あのな、お道の出版物には「家に届いた『天理時報』や『みちのとも』を手に取ると、おぢばの香りと暖かさを感じる」とまで言わせるほどのチカラがあるねんで。そして一方では人々に道を誤まらせてしまうチカラもあるねん。『YOME-YOME』かて天理教本部の下部組織が発行してるんやから同じやで。
教祖140年祭に向かうこの機会に、三代真柱の

道友社には情報活動の独走は許されず、どこまでも教理の説明を取り次いで、教友が知らなければならぬことを取り扱い、教内が一一手一つの、指導係としての旬に応じた任務があると、考えて頂きたいのであります。
『みちのとも』『天理時報』その他の出版物が、書き誌す者、編集する者の心一つで後世を導く文献にもなれば、誤らせる文献ともなることは、私が今お話申したことでよくお分かり頂けたと思うのであります。

『真柱訓話集』第五十一巻(立教百五十四年)P1022~P1023

っちゅう訓話を咀嚼し、道友社に限らず、教内で出版物をあつかう団体や組織は、内容をよくよく吟味し直してみなアカンのちゃうかな、と思う晩秋の夕暮れでありんす。
ほなまたいずれ。

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