箸休め2 廣池千九郎博士と諸岡長蔵氏
記事を投稿した後も未練がましく資料を漁ることは多いのですが、そこで意外な発見があったりするんですよ。
今回も高野友治先生の10年祭を機に、ご子息の高野眞幸さんが先生の遺された書き物をまとめた『教祖余話(非売品)』をめくっていて新しい発見がありました。
そこに収録された『創象』28号から要約して書きます。
廣池千九郎博士の研究を長期にわたって経済的に支えた諸岡長蔵氏(千葉県成田市の羊羹屋「米屋」の主人。明治27年頃の入信。甲賀→近愛の信者)。
諸岡翁は博士が研究所を作る際には5万円(当時は千円で東京の山手に2階建ての家が建った)を提供しています。日常生活での援助を続けた上での話しですよ。
そしてかなり驚いたのが、大正5年頃『新宗教』を出した大平良平氏を援助をしていることです。大平氏は新潟県魚沼あたりの出身で早稲田大学哲学科を出た後、おぢばの詰所に住み天理教を批判する記事を書いていた方です。(山名の信者という記述が『広池千九郎日記』にあります)
個人的に『新宗教』は資料的価値は充分にあると思っています。
『新宗教』を1回だすと現在のお金に換算して30万円ほどかかったと思われるのですが、その費用も諸岡長蔵氏が出しているのです。
大平氏は後に播州の井出くにさんの元に行きましたが、病を得て天理に帰り詰所(山名詰所と思われる)で出直します。天理市教祖豊田町の玉英寺に葬られています。
ちなみに大平氏は亡くなる前に、諸岡氏から援助されたお金を全て返済しています。
大平氏もまた良心の人だったのでしょう。大平良平氏の『新宗教』については『弓山達也仮想研究所』さんが詳しいですね。
諸岡長蔵氏。なんとも不思議な方です。篤志家というのでしょうか。いっそ諸岡さんのことを調べて記事にした方が面白そうなのですが、とっくに山本素石さんが『己に薄く、他に厚く』という本を出しておられました。
ちょっと調べただけで、とんでもなく偉大な方だったということが分かります。
ところで天理教にいた頃の廣池博士、高野先生の記述によると「実は若い人から人気が無かった」そうなんです。
当時は博士号を持つ人は今以上にとても尊敬されていたのですが、講演で司会が
「法学博士廣池博士先生を紹介いたします」と言うと
登壇した廣池博士は
「ただいま紹介された法学博士廣池千九郎は、私である!」という調子で、思いっきり見下す感じだったらしいのです。常は自信満々で鼻持ちならない人だったのかも知れません。
それでも立木教夫さんの小論文には
との記述がありますので、天理教に入る契機となった勢山支教会の矢納会長への恩を忘れていなかったことが分かります。なんだか嬉しい気持ちになりました。教理解釈も独善的に過ぎる廣池博士ですが、間違いなく一時期の教団にはなくてはならなかった人です。またしっかりした信仰も持っていらしたと私は思っています。決して忘恩の徒ではありません。
話しは突如変わります。「詰所」についての面白い記述がありましたので要約して紹介します。高野先生が『創象』16号に書かれたものです。
まだ本部に詰所が無かった明治10年代は、本部の前にあった豆腐屋と中山重吉さんの宿屋が、遠方から来た信者さんたちの宿泊所(有料)になっていました。
その宿で、明治10年代は大阪の真明組あたりが「いい顔」、つまり上客でしたが、明治25年頃になると東京から来る信者さんたちが一番の上客に代わったそうです。それは東京の信者さんが出す祝儀(チップ)の額が飛び抜けて高額だったからです。
当然のように宿の女中たちが他の客を放っておいてでも東京のお客さんの世話にかかり切りになったため、古参客は「ちっ。おもんないなあ」となりました。
そして「いっそ自分たちで泊まる詰所を作ろうぜ」という話しになり、明治28年にできたのが兵神の詰所なのです。
『創象』16号昭和58年3月3日発行
「へぇー」ですよね。こんな感じで小さな発見があるから勉強は止められないんですよね。
今回も最後までお読みいただき本当にありがとうございました。
ではまたいずれ。
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