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2022年最後のブッた斬り! 特別対談 「天理の教え」×「Be」

【糸満】こんにちは。司会の糸満シーサー健児です。
本日は天理の教えさんとBeさんにお越しいただき、『天理時報』新年号に掲載された表統領の新春インタビュー記事についてブッた斬っていただきます。
まず、記事を読んでどのような感想を持たれたか教えてください。
天理の教えさんからお願いします。

【天理の教え】天理の教えです。Beさん、よろしくお願いします。
最初に気になったのは

「前回の年祭以降、かんろだいの節、真柱様のご身上、コロナ禍など、教内外に大きな節をお見せいただいています。しかし、シュンとしていても仕方ありません。これまでを振り返り、さまざまな反省の上に立って・・・」

『天理時報』立教186年1月4日 第4780号

という部分です。
このように認識しているなら、本部で反省点を洗い出し、問題点をしっかり検証したのかな?  問題点が明らかになれば、次の行動指針「具体的な歩み」は自ずと見えてくるはずなので、
「こうした節をいかに前向きに捉え、気持ちを切り替え・・・」などと精神論の問題にしている時点で、検証していないのは明白だと感じました。
(※以降、太字部分は『天理時報』立教186年1月4日号からの引用を表します)
 
【Be】Beです。教えちゃんとのコラボ、楽しみにしとったよ。よろしゅうおたの申します。
教えちゃんが言うように、「さまざまな反省」ってのを明確にして欲しいわ。
それに教内の多くの人達が、かんろだいが倒されたことに衝撃を受けたし、真柱様の身上に心を痛めたと思うねんけど、そうした節の後、お道全体がずっとシュンとしてたわけやないとお思うねん。
せやから「こうした節をいかに前向きに捉え、気持ちを切り替えていけるかが肝心です」と言われても、「え?まだそんなことゆうてんの?」て思たな。
現実的に、ほとんどの人は立ち止まってなんかおらへんやろ。今日までにそれぞれ大教会の創立○○周年記念祭もあったやろし、教会の月次祭に参拝し、できる範囲でひのきしんもしてきた。また、常と変わらん御供えもしてきた。コロナ禍の何かと規制された中で、むしろよく頑張ったと思うけどなあ。せやから、気持ちの切り替えができていないと決めつけられる事は、ちょっと心外やわ。
それに「今回の年祭活動は正念場であるとともに、お道が再スタートを切る絶好の機会」って言葉にも違和感をおぼえる。再スタートっちゅうことは、これまでの通り方が全然アカンかったから「ご破算に願いましては」にする。ってことやん。全否定されてるみたいで、気ぃ悪いわ。結構頑張ってきたつもりやけどなあ。
 
【天理の教え】そうですよね。それに

「親神様、教祖はいま、教会本部はもちろん、一人ひとり、あるいは一教会に対して何を求められておられるのかを、お互いにしっかり考えていきたい」

『天理時報』立教186年1月4日 第4780号

って言ってるけど、それは「 反省は各自で検証してね・・・」ってこと?
 一人ひとりに促す前に、先ずは教会本部としての反省点を述べるべきだよね? 信者は日頃からお供え、ひのきしん、にをいがけ、おたすけに励んでいるわけだから、行動指針を統括する本部はそれをキチンと検証すべき立場。 信者の誠のこもった大切なお供えを、どの様な「人だすけ・世界だすけ」に活用したとか、間違った運用をしたとか、数字で表わせる部分でも明確な検証が必要だと思うね。信者に反省を促すなら・・・
 
【Be】教えちゃんの言うとおりやわ。天理教は上意下達の「絶対的縦の系統至上主義」やん。本部から系統を通じて流れてくる方針や「理の声」を、ほとんどの教会長や信者さんは素直に受け止め、従ってきたわけやから、何がアカンのか検証する責任は本部にあるはずやん。ちゅーか、普通は検証するやろ、正味の話し。
せやけど表統領の

「ようぼくが個人としての目標を立てるのは、難しい面もあるでしょう。そうしたことの起点になるのは各地の教会です」

『天理時報』立教186年1月4日 第4780号

という談話からは、反省点の検証に加え、目標設定の責任を各教会に丸投げしたとしか思われへんよなあ。

【天理の教え】私は

「今回の年祭活動は正念場であるとともに・・・」

『天理時報』立教186年1月4日 第4780号

の「正念場」って表現に、天理教団の運営的立場として「乗るか反るか」のひっ迫した本音が垣間見られた気がするんだよね。
実際に信者数・お供え金額は減少の一途だし、天理教校学園の閉鎖など資産整理と思わしき動きもチラホラ見られるので、決して安穏としてるワケではなく、この状況を何とか改善したいと考えているはずです。ならば、本部で検証委員会でも立ち上げて、問題の本質を突き詰めるべきだと思うんですが、相も変わらず一人ひとりの信者にその矛先を向ける的外れな見解・・・
 
【Be】本部でも話し合われているとは思うねん。おい糸満、どないやねん?お前、本部員の娘と付き合ってたやろ。

【糸満】あわてぃはーてぃー。知らないさー。もう別れたさー。

司会の糸満シーサー健児さー

【天理の教え】うわぁ!ウチナーグチじゃないですか(゚ロ゚;)ハッ!!
てか、糸満さんて何者?

【Be】糸満は私の後輩で、他系統のようぼくやけど、教会の会長さんと反りが合わず、ウチに住み込んでますねん。45歳でまだ自分探ししとる、大酒飲みで大メシ喰らいのウチナンチューですわ。

なんや糸満、別れたんかいな。お気の毒なこっちゃ。ちゅーか、ホンマに役に立たんのぉ。

まあ本部で話し合われてたとしても、最終的には「各地の教会や信者さんにもっと頑張ってもらうしかないわなあ・・・」ていう結論に行き着くと思うけどね。財政面は、ほぼほぼ信者さんからの御供えに依存してるわけやし。
そやけどここに来て、旧統一教会問題であからさまに御供を集めにくい空気になってしもたな。
穿った見方かも知れへんけど、日参に力点を置いて

「距離や時間の面で日参が叶わないのなら、その代わりに、どうやって運ばせてもらうかを考えるのです。近くの教会に参拝してもいい・・・」

『天理時報』立教186年1月4日 第4780号

っちゅーのも、その対策と考えられなくもないなあ。日参には少額であってもお賽銭がつきものやし。まあ下世話な想像はしたくないけどね。
いずれにしても、天理教は他系統の教会へ参拝するのを「理が違う」とかゆーて忌避する「絶対的縦の系統至上主義」やったのに、表統領が公式にそれを推奨したってことは、相当に逼迫しとるんかも知れんね。教団運営上、最適な縦の組織形態を崩すことも厭わんのやから。
個人的には、近くの教会への参拝は所属教会が遠方の方にとっては良いことやと思うねん。けど、別の問題が生じる懸念もあるわなあ。
他系統の教会やゆーても、日参しているうちに親しみも湧けば、情もうつる。特に会長夫婦や信者さんが所属教会よりもしっかりしてはって、その上優しかったり親切やったりしたら、普通は「もうこの教会の方がエエわ」て思うようになると思うねん。所属への帰属意識が薄れるっちゅーかね。それでも、近くの他系統の教会の方が勇めるし信仰も深めやすかったら、その人にとってはエエことやと思うねんけどね。
近場の教会への参拝がスタンダードになったら、縦の系統にこだわる必要のない新しい信仰の形が自然発生的に生まれるかも知れへんね。
それに本部は信者がどこに所属していようが御供は上がってくるわけやん。信者が減らんなら、形が変わってもエエって考えとるのかも知れへん。
知らんけど(笑

【天理の教え】他系統の参拝で言えば、うちの実家は50年以上前から近所の他系統にお世話になってたよ。
教会長様もご高齢だったので、子供の頃、母に頼まれて食事を運んだりもしてましたね。
そこでは系統の違いを全く意識することなく、互い頼り頼られの良い関係で信仰していたと認識しています。
このように50年以上前から他系統に参拝する信仰者もいるし、だからと言って系統を守っている他の教会と比べて、何かが大きく変るとも思えないので、やはり抜本的な検証は必要だと感じますね。
表統領さんの発言を聞いていると、一人ひとりなのか?全教でまとめるのか?どっちつかずに聞こえてなりません。

『諭達』の冒頭で、真柱様は『全教の心を一つにしたい』という旨をお示しくださいました。これは、すなわち『全教の一手一つ』ということです。

『天理時報』立教186年1月4日 第4780号

と言ってたけど、「全教の一手一つ」と言うなら、尚更、音頭を取る芯が必要になりますよ。
十全の守護に見る「道具衆の一手一つ」も月日の思惑に一手一つに働くから、人間は滞りなく守護を享受できるワケです。
「道具衆」には”かしもの・かりもの”を守護するという明確な指針がありますが、これを人間に置き換え、全教に置き換えた場合、やはり教会本部としての明確な指針が無ければ、「全教の一手一つ」など実現できる道理がありませんよ。
 
【Be】 鋭いなあ。教えちゃんの例が示すように、近くの教会に参拝するようになって、すでに会長が代替わりしている所属教会への帰属意識が薄れたとしても、その人が明るく信仰できているのであれば、むしろ喜ばしいことやんね。
所属変更かてもっと簡単にできてエエと思うわ。信仰の主体は神様と自分なんやから。

【糸満】あのーすみません。それでも理の親子とかって、結構強固に結びついていると思うんですよ。因縁があるというか。やはり系統は大事な気もするんですが。

【Be】糸満、お前が言うなw
もちろん糸満がゆーよーに大事や。お道に導いた人と導かれた人の関係は、時には血よりも濃い強固なもんがある。共に泣いたり笑ったりしてきた歴史もあるやろ。軽々に考えたらアカンとは思う。
でもな、「信者さんは全員先代会長がにをいをかけて、丹精してきた人しかいません」みたいな教会やと、後を継いだ会長が丹精を怠るようでは信者さんの気持ちが離れがちになると思うねん。
特に遠方の信者さんが近場の他系統の教会へ参拝したとして、そこに所属教会の会長より立派な会長さんがいやはったら「もうこの教会でエエわ」てなっても不思議やないわなあ。
近場の教会への参拝を奨励することで、今後はダメな会長の教会が淘汰され、信者さんが激減するっちゅー流れもあり得る。丹精不足によって理が薄まってしまう、みたいなことは現実問題としてあるんちゃうかな。
信者さんのことを思えば、それが悪い事とは言い切れんしな。
曰わく言いがたい「理の繋がり」みたいな神さんの思惑を窺い知ることはできひんけど・・・

【糸満】なるほど。信者さんは自分の「理の子」だからどこにも行くはずはない、などと慢心していてはいけないんですね。
確かにBe先輩が私の所属教会の会長だったら、もっと近場で優しい会長さんのところへ走ると思うサー。
他に気になったところはありますか。

【Be】どついたろか!
お前ちょいちょいウチナーグチ混ぜるのやめろやヽ(`Д´)ノイトマン。
他に気になったとこてか?
ある。なんぼでもあるわ。
表統領はんが言う「一手一つ」についてやけど、真柱は『諭達』の中で「一手一つ」と言わんと「全教の心を一つにしたい」と言わはったよな。敢えて「一手一つ」という言葉を使わんかった気がしてならへんねん。
なんちゅーか「一つにしたい」という言葉に切実な思いが込められてるように感じてん。
現在の教団の中に澱のように沈殿してる根本的な問題について、よくよく考えて欲しい。そういう意味での「心を一つにしたい」なんちゃうかな。
「一手一つ」以前の、根本的な問題として提言されたような気がするねんけどな。勝手な解釈かも知れんけど、表統領はんも「行間を読め」てゆーてはるし(笑
どっちつかずと言えば「成程の人」についての話しも理解に苦しむわ。
「難しく考えずに」って言われてもなあ。本来は超絶難しい目標やで。

【天理の教え】Beさんが言及されたように、表統領は「全教の心を一つにしたい」から「全教の一手一つ」へ改変したよね? その傾向はインタビューの随所に見られるけど、これがBeさんの指摘された「一つになれていない」と真柱に思わせる原因じゃないかな?
奇しくも今回のインタビューで顕在化されたように思う。
「 『諭達』の精神を心に治めるには、通り一遍ではなく、その“行間”をしっかり読まなければいけないと思います。」 「“行間”をしっかり読まなければ」と言いながら、真柱の言葉を表統領が上書きしたら、それは真柱の意志を無視した、表統領の発言になりますよ。
『諭達』に「進んで教会に足を運び、日頃からひのきしんに励み、家庭や職場など身近なところからにをいがけを心掛けよう」と示されているなら、その通り解釈するべきなのに、「進んで教会に足を運び」を「毎日運ぶ(日参)」に変えてしまうと、真柱の思いに反する可能性もあるワケです。
 真柱は信者の負担にならないように「進んで教会に足を運び」程度の表現に留めたかも知れないのに、表統領が「いやいや、日参、日参。日参出来なければ手紙やお供えで繋ぐべし!」と負担の掛かる方法を推奨したら、真柱の思惑と全く逆の意味になってしまいます。

【Be】教えちゃん、激オコやんΣ(゚□゚*)
教えちゃんが言うように、真柱の言葉はそのまま伝えるべきやと思う。行間を読んでも、自分の悟りを加えてアナウンスしたらアカンわ。それは「勝手の理」やがな。
私は「成程の人」の解釈も疑問に思てんねん。
「成人とは、分かりやすく言えば「成程の人」に近づいていくということでもあると思います。では成程の人とはどんな人を指すのか。明確な答えはありませんが、それほど難しく考える必要はないと思います。」
て部分ね。
「成人」=「成程の人になること」てゆーておきながら、「明確な答えはありませんが、それほど難しく考える必要はない」て、そもそも文脈として破綻しとるがな。
それに教祖のひながたっちゅう明確な答えがあるやろ。ゆーに事欠いて「難しく考える必要はない」て。そんなアホな!と思たわ。

【天理の教え】「成程の人」の解釈も同様です。

 たとえば”この人に言われたら素直に聞ける””あの人に頼まれると断れない”と、いう人がいるでしょう。その物腰や普段の言葉のかけ方を、自らの手本としていくのです。それも、成程の人に近づく方法の一つだと思います。

『天理時報』立教186年1月4日 第4780号

 この発言を聞いて私はビックリしてしまいました。 「この人に言われたら素直に聞ける」「あの人に頼まれると断れない」、そんな人は世の中に沢山いますよね。 教組をひながたにするお道の人が、何故、世の中の人をひながたにするのでしょうか? もちろん、道の中だけではなく、誰かを参考にして自分を高めることは素晴らしいことです。 だけど「成程の人」になると話は別ですよ。
 表統領の言う内容が「天理教の成人」なら、世の中の素晴らしい人を参考にすればいいのであって、教組のひながたは必要ありません。
 「成程の人」とは、月日の教えを正しく治め、教え通りの生き方を貫き、教え通りの効能を頂いている人。 その姿を見れば「成る程、神様はいるのかも知れない。成る程、教えは正しいに違いない。」と語らずとも伝えられる人。 つまり「三年千日、教組のひながたを辿り、何事も喜びの与えと受けとめ、誰に対しても優しい親心で通り切る神一条の人」ですね。 

『そのためには、教えを深め、心に治めることが欠かせません。簡単ではありませんが、成程の人への歩みが、「ひながたをたどる」ことにもつながるはずです。』

『天理時報』立教186年1月4日 第4780号

もう一度言いますが、世の中の人を参考にするなら、「教えを深め、心に治める」必要はありません。 「ひながたをたどる」から「成程の人」になるのであり、その逆は理として有り得ません。

【Be】うん。表統領の「成程の人」の解釈は私も一番ビックリした部分やわ。教えちゃんが解りやすく説明してくれて良かった。私は腹が立つと勢いで罵倒してしまうから、教えちゃんが論理的に糾してくれると非常に有り難い(笑

【天理の教え】 「教祖年祭は全教の成人の旬」 「三年千日は”普段はなかなかできないだろうから、3年と仕切って頑張りなさい”という期間です。」 これらの言葉も誰かが勝手に解釈した「月日のことば」の成れの果てです。
 今回のインタビューの随所に見られる、「独自解釈による改変」のような問題が、お道全体を覆っていると思いませんか? 色々と反省し、闇雲に目標を立てる前に、「月日のことば」を誤りなく定義することが先ではないでしょうか? そこから全ての問題が発生していると思えてなりません。

【Be】そやね。それにしても最近つくづく思うのが、こうした記事を『天理時報』に掲載する時、事前に誰もチェックせんのやろか?ってことなんや。
今日のテーマから外れるけど、
以前に『出版社と文字のチカラ』でも引用した三代真柱はんの言葉は重いでえ。

本日、私は皆さん方にお願いしたいことは、まず、それぞれが百年前に身を置いてもらいたい。百年前『みちのとも』を発行するにための道友社として発足したということ。そうして教内全般に正しい教理が行き渡るよう『みちのとも』が発行されることになったということを、改めて認識、確認してもらいたいのであります。
私は、『みちのとも』はその普及性から考えて、『みちのとも』が及ぼす教内への影響は非常に大きく強いものと、皆さん方はいつも心に治めていなければならないと申したのであります。決して独走して、道友社の、教内全般の、一手一つを乱してはならないのであります。また私は、記者は自分が書く記事に対しても、歴史に対しても、まず謙虚であってほしい、ということも願いたいのであります。もしも、自分の取るに足らぬ経験のみを非常に重要視して、人々の言動を推測したりいたしますと、時たま誤った視点からものを眺めて、そうなると物事の真意なりを見損なって、心ならずも大勢の人々に誤りを伝えてしまうという事態をも引き起こしかねないのであります。
『みちのとも』や『天理時報』の記事は、それぞれの、言わば時代を物語る文献ともなって、後の世に様々な出来事の証拠を示し、たすけ一条の話の台を思索する道を提供するようになるのであります。

立教 154年(1991年)9月25日に天理市民会館でおこなわれた、天理教道友社創立百周年記念全国社友大会

【Be】言わずもがなかも知らんけど、道友社の編集に携わる人はこの言葉を今一度噛みしめて欲しいなあ。
それとも表統領はんのお話はアンタッチャブルなんかいな?
誰も意見を言えんのかいな?
そんなことでどーすんねんな。出版社の矜持の見せ所とちゃうのん?
広報部門の責任は重大やで。
君たちのペンが全教の進む方向を左右するんやで。
それこそ、正念場や。
おい。糸満、お前どう思てんねん?
元道友社勤務やろが。何とか言え!

【糸満】ぬ-。わっさいびーたん。(涙目)
おっしゃる通りです(ノД`)
そろそろお時間もきましたので、このあたりで終わらせていただきたいと思います(汗
今回のインタビュー記事は上下2回の(上)にあたる記事で、1月25日号には(下)が掲載されますので、注目していきたいと思います。
天理の教えさん、Beさん。本日はありがとうございました。

【天理の教え】ありがとうございました。
【Be】おおきに。オイ!なんとか言え糸満!

しらんふーなー(知らんふり」

※「引用文」は基本的に段落を変えて表していますが、読み易さを考慮し、段落を変えず太字表記によって「引用」を表す箇所もありますのでご了承ください。

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