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勝手に被害者にならないこと。

 ~例:「障害」じゃなくて「障がい」です~

 実にしょうもない議論だ。貴方を差別しているわけではないよ。

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 SNSの発達で、人が自由に言葉を発信するようになって、小さな言葉の選び方に文句を言う人が増えたように思う。確かにそれは、配慮の必要なもので、デリケートなものだと僕も思う。

自分の言葉に信念や思いを込めることも素敵なことだ。

 だけど、人のそれを正すという行為に意味はないのではないか。

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 言葉というのは、本来、直接伝えるものだ。直接伝えればこそ、その体温や文脈がよくわかる。言葉は本来、特定の誰かに向けて、特定の誰かとの間で成立すればよかったわけで、当人たちが違和感なくコミュニケートできていれば、第三者がどうこういう問題ではないはずだ。

 だから、たとえば妊娠を機に入籍した人たちを「授かり婚」と言おうが「できちゃった結婚」と言おうが、当人にとってそれがしっくりきているなら、周りがそれを正す必要はない。

 にも関わらず、別の人が、「できちゃった結婚なって表現はやめてください」とか言う。要するに「私は、望んで授かって『授かり婚』って言ってるんです」的な。

 障害者についてはもう、しょうもない議論が溢れすぎている。

 その人の使う単語が「障害者」だろうが、「障碍者」だろうが、「障がい者」だろうが、それを障害と呼ぼうが個性と言おうが、それは別にどうでもいいことだ。他者が言葉の使い方に文句を言う必要はない。

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 大切なのは、相手がその言葉で指し示そうとしている中身をきちんと受け止めること。僕が「赤」だと思っている色を、他の人が「朱色」と呼んでいようが、それを否定したってなんの意味もない。その人が「朱色」呼んでいることを尊重し、可能ならその背景に興味を持てばいい。

 その人が平常使っている言葉を、そのまま使ってつぶやいて、それが自分の言葉選びと違っても、そこにこそ興味を持って理解すればいい。

 些細な言葉選びに神経を尖らせて、決して自分あてに差別的意図があってそれを使用したわけでもないのに、被害者になった気分で相手の言葉づかいを批判するなど、実に愚かなことだ。

 人の言葉に文句を言う、そんな自分の言動の方が場を汚していることに気付くべきである。

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 僕はよく、日ごろ接する子どもたちに「お前」という二人称を使う。

 自分で書いていても思うけれど、やはり「お前」という言葉は文字にすると非常に冷たくて硬い。

 でも、それに子どもたちが不快感を示したことはないと思う。ほかの些細なことで感情的になることはあっても、「お前」と呼ばれたことに不機嫌になったのは見たことがない。

 それは、その子と僕との関係や、その時の僕の声の質や表情、声量などによるもので、文字で表現しきれるものではない。

 当然僕は、初対面でいきなり「お前」なんて言わない。それなりの関係ができたって、内容とタイミングによって呼び方は変えている。ただ、日常的に冗談を言い合ったりするときや、求められてアドバイスをするときなどに基本的に「お前」と呼ぶだけだ。

 だから、子どもとのやり取りをこういう場で文字にして発表しようと思えば、当然「お前」という言葉が頻出する。やっぱり書いていると冷たく感じるけれど。

 ひょっとしたら、僕にもっと文章力があれば、「お前」の持つ温度や質感を伝えられるのかもしれないけど、残念ながら今の僕にそれはできていない。

 でも僕は基本的にそのまま使う。そうでなければ、ほかの言葉までニュアンスが変わってしまうから。

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 言葉の選び方ではなく、その話の内容にきちんと目を向けたいと思う今日この頃である。

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