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同窓会に行けない症候群

成人式の後に大きな同窓会で会った地元の仲間たち。そういえば、県一の高校行ったものの志望した大学に入れなかった元学級委員長、自信喪失してて表情から姿勢まで窓際族のリーマンに見えたな。

一方ですでに嫁はんを迎え、子供好きなので赤ちゃんが生まれてくるのが楽しみと話す元ヤン。すでに働いてたのかもな、凛としていて、お〜あの子がこんなしっかりした大人になるんだなって感動したのを覚えてる。

私はというと、大学生という自由な時間を許され存分に自分なりの悩みとかを持っている時期だったけど、大学生活が充実している(というかさせている)自覚はあった。だから2年に渡っていい大学に行けなかったことを渡り引きずり人生絶望している元学級委員長を見て、その尋常じゃないテンションの下がりぶりに(2年ん感ずっとこれか?せっかく別の大学通ってるのに)結構引いたところもある。同時に、それは彼の譲れない価値だったのかと思うと、苦しかっただろうなと思いました。

それでここから分析というか推測なんですが、彼は完全にコンプレックスを抱えていたのは分かる。でも、もし彼が一流の大学に行っていたとしても同じ状況が生まれていたというのもあるかもしれない。結局、どこに行っても一番上にいない自分は価値がないと思い込んでしまっていただろうから。それって、プライドを超えたコンプレックスに近いものがあるのかなって。

プライドは紙一重でコンプレックスにもなり得る

っていう。

よく「置かれた場所で成功するのがよし」って言われるし同意できる部分もあるけど、環境は自分一人以上の影響力があるし運によっても影響受けるのが現実だと思う。だからこそ、それに加え自分で自分のプライドに苦しめられてしまうのは本当に苦しいことだと思う。


もし肩書きがなくなったり、有名大学に入れなかったり、いい企業に入れなくて自分の価値がないと思ってる人がいたら、すごい辛いのは分かる。それまで良い流れで行ってた人ほど、虚無感に襲われるになると思う。そして同窓会に行けなかったり、元クラスメイトとの会合に顔出しするのに気がひけていってしまう。


でももし、肩書きや強く理想としているものから離れざるを得なくなったとき(きっと退職時にそれを感じる人も多いだろう)、それがないと自分の価値はないなんてことはないんですよ、って。社会が勝手につけた肩書きですよ。名前があろうがなかろうが、あなたが存在することがまず価値があることなのですよ、すごいことなのですよ。と。それに、本当にすごい人になりたいなら、結構そういう人は肩書きばかり気にしないし、中卒だろうがなんだろうが素晴らしい人間性を持っていて、なんやかんや成功してる。肩書きに頼らない、大切なものを持って人を大事にして生きると勝手にその人の周りには人が集まると思う。

同窓会に行けないと書いておきながら来た人の話だけど(笑)その人は自分がどんだけダメな奴かを話していたので、むしろ聞いてもらって励まされて、いろんな生き方してる同級生たちを見て、自分を認めようとしていたのかもしれない。


行かないのも行かないのも一つの方法。でもずっとそこで悩み続けてる人がいたら、世界はもっと寛大だよ、あなたが思うより!

専門書と珈琲に(^∀^)ありがとうございます!自己研鑽に努めます。