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新元号「令和」は、時代を代表できるキャッチフレーズになりえるだろうか?

 新元号「令和」。
 なんだか五百蔵は、いまだに慣れることができません。
 理由はいくつかありますが、最たるものがこれ。

 なんだか中身が感じられない。

 このひと言につきます。
 今回、この違和感にこだわってみたいと思います。

 

・◇・◇・◇・

 「平成」は、時代を代表できる、絶妙なキャッチフレーズだった

 

 21世紀に入ってからも元号を用いることの是非はさておき……
 なんだかんだといっても、「平成」は時代を代表できる、絶妙なキャッチフレーズでした。

 

 平成は大規模な自然災害が相次ぎ、決して穏やかな時代ではありませんでした。
 それだけではなく、就職超氷河期やリーマン・ショックもあり、国民の間の経済格差は拡大し、貧困が社会問題として大きくクローズアップされるようになりました。

 皮肉なことですが、こんな時代だったからこそ「この世が穏やかに平らかに成ってほしい。そんな世の中にしたい」ということが、自然に国民全体の願いとなりえたと思います。

 

 だけど、その一方で、ジェンダーフリーや性別の多彩さを受容する社会へと、着々と変貌していった時代でもありました。
 女性が仕事をもつことは贅沢ではなく、もはや常識となりました。
 なかでもとくに性別の多様性については、平成の初めの10年では隠れた少数派の声でしかなかったものが、いまでは堂々と語り合うことができるテーマになったし、差別的な発言にNOを唱えることが当たり前のことになりました。

 また、新しい障害として発達障害が注目されるようになったり、パラリンピックをスポーツとして応援する機運も高まっています。やっとですが、障害者の社会進出を本格的に議論できる雰囲気ができてきたように感じます。

 全部ではないけど「社会の中の差別を平らにならし、より平等な世に近づいていった」、それは平成30年間のひとつの特徴だと思います。

 

 さて、平成天皇が目指した象徴天皇のかたちは、例えば被災地では「膝をつき、目線を合わせて言葉をかわす」というものでした。
 現代の平等の感覚になれた自分たちからしたら、それらは人間として当たり前の行為で、別段のことでありません。
 ですが、世々至尊の位を引き継ぎ、明治憲法では「万世一系」と謳われ、「現人神」とさえ位置づけられていた天皇家にとっては、「自ら下に降りる」ことを象徴する行為は、歴史的な振る舞いだったのではないかと思われます。

 平成という元号は、「国民と天皇家の間を平らなものにしたい」という、平成天皇の目指した新しい天皇像と合致していた、ともいってよいでしょう。

 こんなふうに見ていくと、「平成」という元号も、「平らかに成る」という訓読みも、この30年間の世相や、どんな国を目指したいかを語るキャッチフレーズとして、実にいい仕事をしていた、と評価してよいと思います。
 また、「平」の字から連想される、平和、平等、という言葉も、社会に対する国民の願望に無理なく寄り添うものでした。

 典拠とされた「內平外成(内たいらかに外なる)」、「地平天成(地たいらかに天なる)」も、細かい意味はよくわからなくても、今になってみたら、思わず「そうそう!」とうなずきたくなってしまいます。
 とりわけ、幾度もの自然災害に襲われ、復旧も未だならない今、「地平天成」の四文字にこめた願いは、ひしひしと身に迫ってくるものがあります。

 

 「平成」が新元号として発表された当初は、「オナラみたい」「力が入らない」と揶揄されたし、実際に五百蔵もへなへな〜、と力が抜ける感じがしたのを覚えています。
 だけど、このとき候補に上がっていた「正化」は、なんだか勇ましすぎるし、「修文」はなんだかストイックすぎるような気がします。
 これらを押しのけて、まったりとした「平成」が選ばれたのは幸運だったかもしれません。まさかこんな厳しい時代が来るとは思ってませんでしたが、「平成」というゆるいネーミングが、時代にすこしだけ、ゆとりやいやしをもたらしてくれていたような気がします。

 いまあらためて振り返ってみて、「平成」という元号は、どうしてなかなか、悪くはなかったなぁ、と五百蔵は感じます。

 

 ところで、前回の改元で候補のひとつだった「正化」ですが、有川浩が「図書館戦争」で、パラレルワールドの日本の元号として用いていたことを記憶している人も多いと思います。
 国家が武力をもって図書を検閲し、図書館が武装して検閲に抗う、という時代設定に、「正化」という元号がどハマリしていました。五百蔵はこの元号を目にした最初のページからして、背筋がゾッとした記憶があります。

 このようなことを重ね合わせて考えると、古来の国家レベルの災厄があったら改元する、という通例は、単に縁起をかつぐ以上の効果があったのではないかと想像されます。
 つまり、「新しい時代をどうする?どうしたい?」ということを元号というかたちのキャッチフレーズで提起することで、国民の空気感を切り替え、前向きにさせる、という作用があったのではないか、と想像されるのです。

 

・◇・◇・◇・

 

 では、もうすぐ使用される新元号「令和」です。
 元号を「時代を代表するキャッチフレーズ」ととらえるとしたら、これまで使用されてきた「平成」のように、

 「令和」は次の時代を代表できるキャッチフレーズたりえそうか?

 という考えてみると、なんだか物足りないものを感じます。
 ここからは、この物足りなさの正体を明かしていきたいと思います。

 令和の難点① キャッチフレーズにしては、訓読しにくく、伝わりにくい

 

 そもそも「令和」=れいわ、という響きです。
 新元号発表は生中継で見ましたが、耳にした瞬間「明和?」と聞き間違えました。ら行の音というのは、やはり日本語では馴染みが薄く、舶来品のようなおしゃれ感がただよいます。
 そのため、漢字を目で見て音を確認して、「ついに元号もキラキラ化したか……」と感じました。
 なんとなくですが、中身よりも語感優先で選ばれたかな?という気がしています。

 だけど、珍しい音を用いることで、「なにか新しい」という印象をもたせることには成功しています。天皇の生前退位という、最近にはなかったパターンでの改元にはふさわしいかもしれません。

 

 だけど「令和」はすぐには訓読できない。
 これを「和(わ)せしむ」「和(なご)ませしむ」等々……と直ちに読めた人は、一部の漢文好きくらいで、ほとんどの人は「?」だったのではないでしょうか。
 ひと目で意味が伝わらないのは、キャッチフレーズとしてはアウトです。

 明治以降の元号は、
 「明治」明るく治まる、
 「大正」大いに正しい、
 「平成」平らかに成る
 と小学生レベルの知識で訓読することができます。
 訓読した内容もストレートに伝わり、キャッチフレーズとしても上出来です。

 とくに「明治」なんて、幕府をぶっ潰した新政府がこれを決めたわけですから、最高のプロパガンダです。それに対して、「治まるめぇ(明)」と混ぜっ返したのも、時代の急激な変化に振り回された一般人の本音をよく表していて、センスの塊です。

 ただし「昭和」の「昭」は馴染みのない文字でした。
 でも、部首が「日」であることと「照」の字と音も形も形も似通っていることから、「たぶん、お日様が明るいんだろうなぁ」と容易に意味を類推することができます。
 だけど、結局は「明るいお日様」=現人神で、現人神が庶民を戦地に駆り立てるテコとなったことは、時代の不幸だったというほかありません。

 

 このように、明治以降の元号は、読みも意味もシンプルで、キャッチフレーズとしてもわかりやすい。
 だけど「令和」は、「和せしむ」だなんて使い慣れない読み方をしないといけません。そのうえ、これを訓読するにあたり、「令」を「〜せしむ」という一般的な読み方をしない方がいいらしいから、一層ややこしい。

 出典となった万葉集では、「令」の字は「令月」という言葉として用いられています。良い月、めでたい月、という意味で、2月の異称でもあります。
 また、「嘉辰令月」=めでたい年のめでたい月、という四字熟語もあります。
 だから、訓読するなら「良い」「めでたい」あたりが適当ということになりますが、こんな知識があるのは、漢文や古典が好きな人のなかでも、たぶん、よほどの人です。

 五百蔵は漢文が好きな方ですが、この「令和」、どう訓読すると典拠で述べていることも含みつつしっくり表現できるのか、いまだに途方に暮れています
 いまのところ、「Beautiful Harmony」との政府見解から、強引に「うるわしく和する」とでも読もうかしら?と考えています。

 

 このように、誰にでも簡単に、ひと目で意味を伝えられない「令和」は、キャッチフレーズとしては優秀とは言い難いです。

 

……さて、ここでだいたい半分です……
もうひと頑張り、お付き合いくださいませ!

  

 令和の難点② 「日本は国民主権の国である」という視点がすっぽりと抜けている

 

 さて、どんなものでも新しいものには、誰かしらがケチをつけるものですが、なかなか説得力のある議論も提起されています。

 どちらも結局、「令和」をすんなり読むと、和せしむ=「命令して仲良くさせる」となることや、「令」の字が命令や強制を連想させること、を疑問視しています。

 いくら典拠に「令月」とあるとはいえ、令の字は「〜せしむ」と読むのが一般的です。また、「命令」「司令」という言葉を連想する人のほうが、間違いなく多数派です。
 それゆえ、字面から典拠が正しく想像できない、というのは「令和」の致命的な欠点です。

 

 明治=明るく治まる、は、
    「聖人南面而聴天下、嚮明而治
     (聖人南面して天下を聴き、明にむかいて治む)
    →聖人が王として天下の声を聞くと、世の中は明るい方へと治まっていく。

 大正=大いに正しい、は、
    「大亨以正、天之道也」
     (大いにとおりてもって正しきは、天の道なり)
    →しっかりと筋道が通っていてしかも正しい。それは天の道理にかなっている。

 昭和=昭(あき)らかにして和す、は、
    「百姓明、協萬邦」
     (百姓[ひゃくせい]昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す)
    →様々な人が分におうじて徳をおさめると、世界はまるくおさまる。

 そして平成=平らかに成る、はシンプルに、
    「內平外成」(内平かに外成る)
      →国内も穏やかに、世界も穏やかに。
    「地平天成」(地平かに天成る)
      →大地も穏やかに、天のめぐりも穏やかに。

 ……そもそも、漢文で述べられていることを厳密に現代語訳するのは難しいです。だけど、なんとなく伝わってくるものがあります。
 「→」でしめしたものは、そうやって五百蔵なりに汲み取った内容です。だから、正確な翻訳との間には錯誤があるかもしれないことを、おことわりしておきます。

 だけど、こんなふうに、わからないながらも何度も読み込んでいると、元号の字面や訓読みが、典拠が述べていることをシンプルに要約していることが了解されてきます。
 このように、それぞれの元号には、これからどんな世の中にしていきたいのかが、端的に、伝わる形でまとめられています。
 そしてそれぞれに込められた理想は、ケチのつけようがないものです。

 

 だけど「令和」の2文字からは、
 「于時、初春月、氣淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」
  (時に、初春の令月にして、気よく風やわらぎ……以下略)
 という、典拠で表現されている初春ののどやかな情景が、とてもではないけど想像ができません。

 だから、よほど意識的に働きかけていかない限り、「和せしむ」の訓読が広く無意識のうちに行われるようになると、五百蔵は予想しています。「〜せしむ」と読めなくても、連想される熟語から、自然と意識されてしまうと思われるのです。

 このように、どうしても、「令」の字は、命令すること=強制、をイメージさせてしまいます。そのような漢字を用いることが「国民主権の国家の用いる元号」としてふさわしいかどうか、疑問が残ります。
 つけくわえて、わざわざ広めていかないと正しく意味が理解されない可能性が高い、という時点で、「令和」は典拠の要約として失敗作です。

 

 今後、元号を用いることは廃れていくことでしょう。
 平成に改元され、その10年ほどあとに「19xx年」から「20xx年」へ切り替りました。このときの面倒くささが、様々な場面で西暦の使用を一般化しました。そして今回の改元です。これから数年間は、またもやあらゆるところで「めんどくさい」の声が溢れかえり、より一層、西暦使用が拡大するでしょう。
 正直な話、役所が使用するから元号が残っている、というのが実態だと思います。

 それでもどうしても元号というものを文化として残したいのなら、「国民主権の国家にふさわしい元号とはどんなものか?」という根本を定めてないことには、国民の理解を得られなくなる時代がいずれ来る、と五百蔵は予想しています。
 さらにいうなら、君主制を残す日本という国が、元号にどんなメッセージを込めるか、国際社会も注視しています。非民主的なメッセージについては、反発をくらうことは、容易に予想できます。

 だけどこの「令和」については、そこまで突っ込んで考えられたようには思われないのです。突っ込んでいたら、「令」の字は国民主権の今の時代にそぐわないことが直ちに判断されたはずです。
 平成天皇が、新憲法のもとで即位した初代の天皇として、新しい天皇像を模索し、実践してきたのとは対蹠的です。

 

 令和の難点③ 天皇誕生日との結びつきがストレートすぎる

 

 もうひとつ突っ込むなら、典拠にある「令月」とは2月の異称であり、令和時代の天皇の誕生日が2月23日になることです。
 「時代を代表するキャッチフレーズ」である元号に、天皇の誕生日と直接的に結びつく文字を含めた。これは、元号を通して天皇への敬愛を国民全体に強制するもの、とうけとられても反論できません。

 現代の日本で元号が不要であることを主張する際に、「君主が時間を支配するという不合理」「国民主権との矛盾」が必ず指摘されます。なのに、新元号と天皇をわかりやすく関連付けてしまったことは、元号反対派のためにツッコミどころを提供したも同然です。

 いまくらいの情勢なら素朴に「誕生日にひっかけるなんて、しゃれたことをしたな」ぐらいの評価でおさまるでしょう。
 だけど、国内の状況にしろ国際情勢にしろ、あと数十年のうちになにが起こるかわかりません。こじれたときに、「日本は実は専制君主の国だ。元号を見たらわかる」というような余計な言いがかりを招く可能性があることは否めません。

 結局これも、「国民主権の国家の用いる元号とはいかなるものか?」という問いが欠けていたからこうなった、としかいいようがなく、残念です。

 

 さらに、です。
 令和を、典拠の意味を汲みつつ、最もすなおに訓読みするとしたら、「令月に和す」になります。だけどこれはもろに、「みんなで天皇誕生日を祝いましょう」になってしまう可能性があります。
 国民主権をうたい、天皇と国政を分離している現憲法下では、さすがにこの読み方はマズい、と五百蔵のような素人でもわかります。

 それにしても、元号を典拠に沿って訓読みすると、国民主権を標榜する政府にとっては地雷となるとは、奇妙な話です。
 政治には近づかぬよう距離を保ってきた天皇家にとっても、ありがた迷惑なのではないか、などと想像してしまいます。
 もしかしたら、「令月に和す」ような国家に作りかえることが「令和」の真の目的なのではないか?なんて、逆に勘ぐりたくもなってしまいます。

 

・◇・◇・◇・

 

 ここでいったん、これまで述べてきたことをまとめます。

 ①元号は、国造りの理想が込められた「時代を代表するキャッチフレーズ」である。「平成」はその好例であった。
 かつて天変地異に際して改元が行われていたのも、元号がキャッチフレーズであることをうまく利用し、活かしたものだったと考えられる。
 
 ②明治以降の元号は、2文字で端的に典拠の内容を要約し、かつ、国家の理想がひと目で伝わる、キャッチフレーズとして優れたものであった。
 しかし、「令和」は訓読みが難しく、そのうえ一般的な読み方と典拠の内容とが全く食い違っている。ゆえに、元号に託した理想が伝わりにくく、キャッチフレーズとしては不出来である。
 
 ③次世代に元号を残したいなら、「国民主権の国家にふさわしい元号」の方向を次世代に向けて指し示すものにすべきであった。
 しかし、上からの強制を連想させる「令」の字を用いたゆえに、元号を後世に残すための説得力が損なわれてしまった。天皇誕生日との結びつきもストレートで、内外の情勢が悪化した際には、「令和」がアキレス腱となる可能性もある。

 

 五百蔵が最初に感じた物足りなさ、なんとはないなじめない感じをつきつめるとこうなりました。
 端的に言うと、「令和」には「国民主権の国家にふさわしいキャッチフレーズを選定する」という国家としてもっとも大事な前提が忘れられている、となります。

 これは、「令和」という言葉の良し悪しとは別の問題です。初めて国書を典拠としたことや、ら行の音を用いたことなど、「令和」は言葉として面白い要素が多い。
 しかし、それが元号たるためには、良い言葉である上に、国民の心に響く、国民主権という国のかたちにふさわしいものであること、が問われるのです。

 たとえ「令」の字が使われていたとしても、字面から典拠の内容が容易に想像でき、それが国民主権にふさわしいものであれば、まだしもだったと思います。が、残念ながら「令和」はそうではないのです。

 

 もし選びなおせるなら、「令和」じゃなくて「万和」にしたい。

 

 ではもし、選びなおせるとしたら、どれを選ぶか?
 候補としては挙げられていた「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか)」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽう)」から考えてみたいと思います。

「英弘」……「英」をどう訓読するかが引っかかります。
     日本のよいところや文化を広めたい、と解釈できそうです。
 
「久化」……「久しきと化す」
     なにかを永遠のものとしたい、だけど、何を?との疑問が残ります。
 
「広至」……「広く至る」
     世界中に影響力を持つ、みたいな感じが伝わってきます。
     プロとしてあらゆることに通暁する、とも解釈できそうです。
 
「万和」……「よろずのもの和す」「よろずのもの和らぐ」
     ありとあらゆるものが、平和で仲良く。
     人類だけでなく、自然との調和をも視野に入れられそうです。
 
「万保」……「よろずに保つ?」……すんなりとは読みにくい。
     雰囲気的には「万和」と近いですが、「保」の意味が伝わりにくそう。

 

 あらためて、訓読してみて、自分なりに解釈してみると、訓読しやすく、意味がシンプルに伝わってくる「万和」がピカイチのように思われます。
 実をいうと、これらの5候補のニュースを子どもと見てたのですが、真っ先にふたりで一致したのが、

 「万和はないな」

 でした。
 だって、音的にダサい。「バナナかよ!」って突っ込みたくなりませんか?
 だから、まあ、令和になったのも当然か、とそのときは思っていました。

 

 ただ、こうやって、「令和」について徹底的に突っ込んでみて、現代の日本の元号にとって必要なことは、

 ①時代を代表できるキャッチフレーズであること
 ②かつ、国民主権の国家にふさわしいキャッチフレーズであること

 という2つである、と自分なりに腹落ちした以上、雰囲気だけで元号の良し悪しを判断するのは下策であるとはっきり言えます。
 それを言うなら、「平成」から放たれるへたれな雰囲気に対して、当初感じたのは「さいあく〜……」「マジかよ〜……」でした。
 「平成」のように、ダメな子が最後には上等に化ける可能性がある。だけどそれは、典拠も、典拠を要約した「平成」の2文字も、ケチのつけようがないものであったからです。

 

 残念ながら、「万和」の典拠まではわかりません。ですが、この2文字だけでも、十二分に説得力があります。
 たとえ音的には「ほぼバナナ」でも、人と自然、すべての事象をくるみ込める「万」の字の威力はすごい。それを「和」という字と組み合わせることで、全体がより幸福になれる世の中にしていこう、との理想になる。
 ちょっとこれ、国連のキャッチフレーズにしたって大丈夫、というくらいの壮大さです。……まあ、その時は世界中から、「BANANA? Oh my God!」とツッコミが入ることでしょうけど。

 もちろん、国民主権の原則に反しませんし、なんなら、戦争放棄と基本的人権の尊重もこの2文字に含まれている、と言い切ってしまってもいいくらいです。

 さらに、平成の30年間は、様々なことを課題として残しました。
 自然災害との戦いと復興、原子力との付き合い方、男女・性別・障害者等々の差別解消、国民全体の貧困化と高齢化の進行……だけど、「万和」ならこれらの問題にたちむかう心構えを示すことができるように思われます。「いろいろあるけど、最後には、みんなが幸せに暮らせるようにしたい!」と、問わず語りに教えてくれる、そんな元号たりえたかもしれません。

 良し悪しは、最終的には典拠の内容にも基づいて判断しなといけないことですが、こうなってくると、逆に「万和」の典拠はどんなものだったのか、気になって仕方ありません。

 

・◇・◇・◇・

 

 以上、長々と述べてきましたが、元号が「令和」に決まったことは動かしようがありません。改元の在り方について議論しても、次に活かせるのは、何年先のことかしれません。

 ただ、今回のようにあとから突っ込みどころを指摘されるくらいなら、先に候補を国民に示し、議論を尽くさせたうえで選定することを考えていいのではないか、と思います。なんなら、国民投票して候補を絞る、ということを試みてもいいかもしれません。

 大切なことは、国民主権の国家にふさわしい言葉が、国民主権の国家にふさわしい手続きをへて、元号として選ばれることです。
 五百蔵は必ずしも元号制を擁護するものではありません。ですが、もし、日本独自のものとして次世代に元号を残したいなら、国民主権にこだわり抜くことこそが元号を残す鍵であることを指摘して、この論を終わりたいと思います。

 国民に支持されるものは残るが、支持されないものは消える。
 地域の祭りも、面白ければ残るし、つまらない、古臭いと思われたら廃れていきます。
 まったく、それと同じことです。

いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。