見出し画像

「うつ」だけど、noteが1年以上は続いています《140文字以上のnoteことはじめ》

 「#noteの続け方」のお題企画に乗ってみます。
 だけど、じっさいのところ「続け方なんてものあるのかな?」と疑問に思っています。
 だから、ここでは、去年の4月からnoteで書くことを開始して見えた景色を書いておきたいと思います。

 最初にいっておきますが、決して口当たりのよい内容ばかりではありません。わかりやすいノウハウもありません。

 

・◇・◇・◇・

 

①いちばん大事なのは「元気であること」。

 勘違いしてはいけないのは、ここです。五百蔵のような病人にとっていちばん大事なのは、

 1日も早く、心身ともに元気になること

 です。健康な人にとっても、いちばん大事なのは毎日が健やかで、元気に過ごせることであるのはいうまでもありません。
 だから、noteを続けることが日々健やかであることを阻害するならやめないといけないし、やっちゃいけない。
 もしくは、やり方を変えないといけない。

 これは、うつ病人である自分への自戒の意味も込めて、まずいちばん最初に掲げときます。

 

②消えた人はいっぱいいる。

 五百蔵がnoteを始めたころは、イケダハヤトさんの「noteは稼げる!」みたいな記事の影響があったせいか、一気にユーザーが増えた時期のようです。そのせいか、開始当初にフォローした人の多くは、「同期」でした。

 だけど、今もコンスタントに継続している人は数人です。

 noteとは肌が合わなかった人、仕事が忙しくなったり、興味の対象が移ってしまった人、途中で病気になってしまった人……様々な理由で「noteやめます」宣言していなくなった人がいます。
 もちろん、いつの間にか更新が無くなってしまった人、アカウントごと消えた人もいます。
 なかには、続いてはいるけど、投稿数がまばらで、存在感が低下してしまった人もいます。

 続くには、方法も必要かもしれませんが、それ以上に続くための条件の方が、より必要なようです。
 だから、やめる必要があってnoteをやめたり中断することは、敗北でもなんともないと思います。

 

・◇・◇・◇・

 

③書くと何かが犠牲になる。

 ものを書くためには、時間も労力も必要です。新しく始めたのなら、その分、いままでできていた何かへの時間や労力が削られます。ましてや、ただでさえ体力のない病人や、気力の減退がいちじるしいうつ病人にとっては、たった100文字の文章を書くことさえ、シビアな負担になるときがあります。

 たとえば、五百蔵の場合、今年はこんな状態です。

書ける、書けないは、必ず何かとのトレードオフ
 
 年末から調子がわるくなり、年明けからずっと、「長い文」が書けなくなっていました。文を書こうとしても、うまくまとめられないし、意欲も下がっていました。
 だけど、この夏、心身の限界を感じたので、アンケートサイトやポイントサイトでプチ稼ぎすることを制限することにしました。すると、そのとたんに、長文が書けるようになりました。
 つまり、プチ稼ぎからくる負担と文を書くことが、トレードオフになっていた、というわけです。
書く=深い疲労=家事が滞る
 
 長文は書けるようになったものの、その分、疲労は深く、投稿後は3日くらい、ほとんど読み書きできなくなるのが現状です。ネタはあるので、つぶやきの140文字くらいならどうにかならないか、という気もしますが、脳が休息を求めて完全にストップするので無理です。
 もちろん、日常生活にも影響が出ます。そんなときは、ぐたっ……となって、1日のうち、横になっている時間の方が多くなったりします。とうぜん、晩ごはんが作れなくなったり、布団を干すのがしんどかったり、と家事も滞ります。

 だから、noteを続けることにどこまでエネルギーを割くのか、そこまでする価値はあるのか、具合が悪い人、忙しい人ほどシビアに考える必要があると思います。
 どんなに書きたいと、24時間書いていたいと願っても、実際に「書く」のはあなたではなく、「あなたのからだ」です。からだのゆるす範囲でしか活動はできません。
 なので、自分のような病人がそもそも少ないエネルギーを「書く」に割いた以上、絶対になにかが犠牲になります。健康な人だって、影響が見えにくいだけで、なにかが確実にけずられています。

 

④続けることにしがみつく。

 五百蔵をふくめ、今まで続いている人は、なんだかんだいって、書き続けることにしがみつき続けられた人だと思います。しがみついていたからこそ、不十分な条件下であっても続けられる手立てを考え、実行し、ときには開き直ることができるのだと思います。

 五百蔵は実際にこんなことをして、「書けない」をしのぎ、続けることにしがみつきました。

飛び石でもいいから長期に出し続けることを目標にした
 
 一時期、noteで「毎日連続投稿」がブームになったときがありました。だけど、自分にとったら苦しく、そもそも「うつ」なので脳への負担も大きく、日常生活にも支障がでたので、さっさと降りることにしました。
 また、毎日投稿している人の多くが、短めの文章を投稿していることに気が付きました。
 そこで、「時間をかけて満足いくものを投稿できるなら、毎日でなくていい」に方向転換しました。さらに「最低でも週に1回、つぶやきでもいからなにか投稿する」に目標を下方修正し、細く長くを目指すことにしました。
できなくなった企画にしがみつかない
 
 
こんなことを書きたい、あんなことをやってみたい、と思ってはじめたのに、続かなかったこと、すくなくないです。だけど、できないものはできないので、やめるか、余裕ができるのを待つかしかありません。
 わざわざ苦痛を増やし、noteを続けることが負担になるようなことは、どんどんとやめるか、いったん中止にしました。もしくは、手間を減らして続けやすくしました。
長文がかけない
 
 今年のはじめから、短期記憶がすこししか働かなくなり、一時期、長文が書けなくなりました。画面に出ている文字は大丈夫だけど、スクロールして画面から消えた瞬間に、内容も脳みそから消えてしまう、という、ちょっとありえん状態でした……(今はずいぶんマシになりました)。
 なので、当面は画面に全文字が表示され、全部が一目瞭然で目に入る、短期記憶の必要のない「つぶやき」に特化することにしました。
タイトルがつけられない
 
 同時に、タイトルが全く思いつかない、という状態に陥りました。短期記憶がきちんと働かなくなっているので、文章全体が脳の中で把握できない、だから、そのエッセンスを抽出したものであるタイトルなんて、出てきようがありませんでした。
 そのせいもあり、タイトルをつける必要のない「つぶやき」の存在は、ほんとにありがたかったです。
 これがなかったら、まちがいなく書き続けられなくなっていました。

 

 ところで、これらトラブルに対し、「メモをとればできることなのに」と感じた人も多いと思います。ですが、本質を抽出する、という作用が働かなくなっているので、そもそも「メモとしてどういう言葉を書き残せばいいのか」がわからなくなっているのです。
 また、ここまで記憶の働きが低下すると、メモを見ても、何が言いたいのか理解ができなくなっています。だって、メモは「記憶を引き出すキー」です。何を引き出したくてこんなメモを残したか、ということ自体が思い出せないし、メモの言葉を見ても引き出すべき記憶と関連づけられないのです。
 さらにいうと、もしメモを取れたとしても、メモをもとに「思考を進める」ということすら困難になっていました。そんなとき必要なのは、努力よりむしろ休息です。

 ……よかったら、「うつ」になると脳に何が起こるか、という実例として知っておいていただけるとうれしいです。
 そして、メモすら取れないような状態でも、意地でも書くことにしがみついていたことがわかっていただけたらと思います。

 

感情が平板化し、表現も画一化している
 
 これは、現在も続いている症状です。年末に薬を変えてから出はじめて、未だに続いているので、薬の副作用的なものだと思っています。
 どうすれば面白くいきいきした表現にできるかが、根本的に分からなくなっています。どうも、それに関する脳の活動が、何らかの要因でロックされてしまっているようです。
 人によっては、書くことをやめることを選択するかもしれません。不完全なものを出すなと怒る人もいるかもしれません。
 だけど五百蔵は、症状がいつ解消するかわからないし、そうである以上、「片足のランナーが走っているようなもの」として書き続けるしかない、と開き直っています。
「noteを続ける」は、「書く」だけではない
 
 もうホントにこれはダメだ、こんな症状ではひと文字も書けないかもしれない、と絶望的な気持ちになったときにそう考えました。
 noteでの自己表現は「書いて投稿」だけではないんです。コメントやスキで交流することも、様々な投稿を集めてマガジンにして、マガジンのフォロワーさんに楽しんでもらうのだって自己表現です。
 「ひと文字も文章が出てこなくても、それでもまだまだ何かできる!」という実感は、意地でも続ける、という気持ちの大きな支えとなりました。

 

・◇・◇・◇・

 

⑤出来ないことや分からないことは開き直る。

 仕事として文章に携わっている人はともかく、五百蔵のような素人は徒手空拳です。出来ないこと、分からないことは山ほどあります。
 だけど、いちどに全部できるなら、とっくにプロになってます。
 完璧にならないと書いちゃいけないのなら、一生なにも書けません。

 続けるうちに見えてくるものがある
 慣れが出来るようにしてくれるものもある

 と開き直り、悩みはいったん棚上げしています。
 意識のどこかで気にかけていると、その時や、ヒントが流れてきたときに一気に前進できる可能性がひらけるので、それが来るまで粘ります。また、経験の積み重ねから、自然にさとることも出てきます。
 そのためにも、開き直って続けるしかない、というのもあります。

 「長生きも芸のうち」という言葉があるそうですが、まさしくそうだと思います。
 続けなかったら、積み重なりません。また、どんなチャンスにもめぐりあうことはできません。
 そして、続けなかったら、試行錯誤もできないし、変化もできません。
 だから、続けるために必要なのなら、いくらでも開き直ります。

 

 たとえば、こんなこともあります。
 
 信じられないかもしれませんが……去年、ずーっと、「文章を客観的に見る」というのが理解できない状態になっていました。「これは自分の目で自分の頭。他人の目や頭になるのはどうしてもムリ!」と、四苦八苦してました。
 ですが、今年のはじめに、突然、頭のなかに「客観性」という3文字が出てきて、「あ、脳への負担を減らすために客観的に見る能力がロックされてたから、出来なくて当たり前だったんだ。これもうつからの回復のための過程だったんだ」と気がつきました。
 だからといって、性急になっても脳への負担がかさむだけなので、脳が「客観性」の使い方を思い出すのをゆっくりと待っているところです。おかげで「客観的とはこういうことか」とひらめくことが徐々に増えてきました。
 これもひとつの開き直りです。

 

⑥数字はご褒美ていどのもの。

 初期のころは、スキやビューの数に一喜一憂していましたが、一定数を超えると、「これは毎日100円貯金するのと同じだな」という境地になりました。
 よほど人に嫌がられる記事を書かないかぎり、ひと記事書けば、スキの総合計は増えます。ビューも増えます。だから、これは、続けたら必ずもらえるご褒美のようなものです。

 それに、一般受けする記事ほどスキが付きやすく、マニアックなものほど付きにくいのも事実。スキの数字だけがほしかったら一般受けする記事ばっかりを書けばいいけど、そんなの、自分がつまらないでしょう?

 上をめざす人は、そこから数字の動向を読んで、工夫を重ねていけばいい。自分の好きなことを、より一般的に受け入れられやすく書く工夫をしていけばいいと思います。そのとき数字はご褒美以上の大きな味方になってくれます。
 そうでない人は、買い物をしたら貯まるポイントのようなものとして、楽しめばいいと思います。

 だけどいずれにしろ、数字へのとらわれから解放されていることが大事だと思います。「数字への悪しきとらわれからの解放」は、続けることが与えてくれる、よきご褒美だと思います。

 

・◇・◇・◇・

 

 ここからは、続けるうえでのエネルギーになったものを書いておきたいと思います。

 

⑦いつもスキをくれる人に恵まれた。

 これは下手したら自分を甘やかしてしまうことにもなるけど、だけど、いつもスキをくれる人が何人かいてくれたことで、しんどいときの心の骨折が深手にならずにすみました。

 ほんとうに、ありがとう。

 

⑧批判してくれる人に恵まれた。

 キツイ内容だったときや言葉足らずだったときなどなど、記事への批判や疑問を自分の記事としてタイムラインで流してくれる人が、フォローしている人のなかに数人います……と、自分では思っています。
 読んだ瞬間はヘコむけど、そして、「うわ〜、ごめんなさい……」ってなるけど、記事の修正や考えを深めるきっかけになり、いつも感謝です。

 たまに、漢方薬の高麗人参エキスみたいにガチ内容で濃ゆいのが流れてきたときは、すいません、しばしば死んだふりをしています……「体が弱ってるときににんにくを食べると、かえって疲れるからやめとけ」ってやつですね。これについては一にも二にも、心身のキャパが回復するのを待つしかないところがあります。
 でも、これもまた、他の人にはそうそうない出会いです。ありがたいことです。

 また、自分を批判的に振り返るきっかけになる記事に出会う確率が高い人やマガジンをフォローするようにして、タイムラインがそのまま「修行の場」になるようにしています。

 なかには、批判に見える「悪口」を流してくる人もいました。そんな人は少数ではありましたが、順次フォローをはずしました。
 べつに内容がとんちんかんなわけではなかったので、当人たちには「悪口」の意図はなかったのだろうと思います。だけど、その人たちの「批判」は、底意地の悪さが感じられ、ひとを批判しながらも、五百蔵に言葉が届き、真っ直ぐに受け止められることは目指してないのが感じられました。
 ようするに、五百蔵はなにかの気持ちの発散のネタにされているだけ、ってことで、五百蔵に何かを伝えるための批判だった、とは感じられませんでした。だから、批判から得られるプラスよりも、精神面でのマイナスのほうが大きかったです。
 職場の人間関係になぞらえて考えてみたら、健全であるとは思えなかったので、そんな人たちはフォローをはずしました。
 そうやって、精神的に不健全にならないタイムラインを維持してきたのもよかったのだと思います。

 そしてもちろん、「あ……私の記事に触発された!?」みたいな記事を見ると、とってもうれしい!

 陳腐だけど、やっぱり、みなさん、ありがとう。

 

・◇・◇・◇・

 

⑨棲息してる人がガチンコですごい人ばかり。

 日常生活ではまず出会えない研究者やクリエイターが、noteにはごろごろしています。ふつーの人たちだって、なにか新しいものを、という意欲がただならない。
 とにかく、棲息している人たちが、ハイクオリティです。

 孟母三遷の教え、っていいますけど、どんな場所に身をおくかは大事です。前進を目指す優れた人の中に所在するだけで、向上の動機づけになります。自分も何かを生み出したい、という思いになれます。
 全部読み切れなくてもいいんです。そんな人たちの記事が日々タイムラインに流れてくるようにしておくだけでも、気持ちが引き締まります。

 そういえば、「《おばさんたちの中の星》になってもしかたない……」と思ったのが、古巣のブログサイトを捨ててnoteに移ってきた理由でした。
 まあ、そもそもnoteでは歯が立ちませんでしたが。
 だけど、これについては、鶏口よりも牛後であるほうが、ダントツで人生にはプラスです。

 

⑩ユーザー目線の運営、みずから運営に関わるユーザー

 もし、noteがほかのブログサイトと違うところがあるとしたら、ここです。
 有料記事がかけるとか、有料マガジンが作れるとか、そんな枠組み、たぶん誰でもまねできます。
 だけど、運営がユーザーの意見をバンバン聴くし、ユーザーも「こうなったらいいのに」をガンガン上げるし、しかも、

 言うこと、動くことによって、よりよい場になるかもしれない

 という展望をユーザーに抱かせられるのは、noteならではの特徴です。

 運営とユーザーがお互い関わり合うことで、noteという場をつくり、より面白くしていけるかもしれない、という楽しさは、ほかのサイトではなかなか出せないと思います。
 こんなふうな、noteという場の吸引力が書くことを続けさせている、というのは、ゼロではないと思います。

 

・◇・◇・◇・

 

⑪第一の読者が自分だから、続くのは必然

 五百蔵にとって、noteが続くための決定的な要因は、「自分が読みたいと思うものを、自分のために書く」というスタンス以外、何物でもありません。
 極端な話、「自分」という最大の読者を確保しているので、ビューもスキも、ゼロでかまわないんです(……実際はそこまでハートは強くないです)。

 この記事の最初のほうに、五百蔵がフォローしていた人のうち、この1年半で消えた人はいっぱいいて、今もコンスタントに継続している人は数人であることを書きました。
 これらのnoteが続いている人たちだって、なにか自分にとって根源的な欲求を満たし続けているから、書き続けられているのだと思います。それに、その人にとっては何が原動力になっているのか、毎日の記事からじわじわと感じとることができます。

 逆にいえば、身の内からほとばしる切実な欲求のない人は、いくら方法を提示しても続くわけがないし、せっかく続ける努力をするなら、もっと別な、自分の本当の欲求に合ったことをした方がずっといいはずです。

 

・◇・◇・◇・

 

 最近は、仮タイトルを考えて、ヘッダーの写真を選んで、おもむろに本文を書きはじめていますが、「なぜその写真を選んだのか?」という謎が、書きながら解明されるパターンが多いです。
 今回も、「自分」という列車が、noteという路線を走ってみて、車窓から何が見えたか、を書きたかったのだなぁ……ということが後からわかりました。

 この記事は、不特定多数に「#noteの続け方」なるノウハウを指南するものではないです。
 最後の最後まで、「noteが1年半続いた自分」のために、もしくは、自分がなにかの拍子につまずいたときの標とするために書いています……ていうか、だからこそ「書いておこう」と思ったわけで。
 やはり徹頭徹尾、読者である自分のための記事です。

 

 だけど、最後にひとつ役に立ちそうなことを書いておくとしたら、「noteを続ける」は心身の健康や、日常生活の諸条件により支えられ、あるいは制限されている、ということです。
 「続け方」とは、心身と日常生活の健やかさをたもちつつ、かつ、時間を横取りしようとする諸々の案件をいかにかいくぐってnoteを続けていくか、という創意工夫にほかなりません。
 そして、しがみついてでも書き続けなければならない内的必然がなければ、「続け方」を編み出す必要なんてないし、そもそも創意工夫し続けられません。

 「続け方」にたよって書き続けようと目論むことは、見当違いです。
 それよりも、noteには、「続けよう!」という気持ちを鼓舞してくれるユーザーがたくさんいます。たよるなら、おのれと仲間を、です。

 

 こんな内容ですが、迷える誰かのお役に立てたら幸いです。

 

 




この記事が参加している募集

noteのつづけ方

いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。