エモいがキモくてごめんなさい ②テクニックは、ただありのままを移し取るために《140字の日記+ 51》

 前回は「#熟成下書き」を蔵出しして、「エモい」のどのへんが苦手か述べました。

「https://note.mu/beabamboo/n/nfcdc1a61a4b6」

 そのなかで、以前はnoteの「みんなのギャラリー」がけっこう苦手であったことも述べました。
 だけど、「みんなのギャラリー」については、最近そうでもなくなってきました。ひとつは慣れ、だと思います。だけどもうひとつは、「こんな人の写したものは好きだな」というのが見えてきたからだと思います。

 

 そのうちのひとり、ハタモトシンイチさん。
 みんなのギャラリーの方では「aoneko」のお名前になっています。

「https://note.mu/aoneko/n/n75546d2cd79f」

 ハタモトさんのこの記事↑で用いられている、普通のトマトとマイクロトマトとの大きさ比較写真、「みんなのギャラリーで見たよ!」という人もいるのではないでしょうか?かくいう五百蔵も、そうです。アイコンやお名前は覚えてなかったけど、この写真はしっかり脳ミソに焼き付いていました。

 そんなわけで、お名前はきちんと意識してませんでしたが、この記事↓で使わせてもらった玉ねぎの写真も、ハタモトさんでした。

「https://note.mu/beabamboo/n/na54349e62bcc」

 それからこれも、ハタモトさんでした!

「https://note.mu/beabamboo/n/ne7a52b66216b」

 余談ながら、名前覚えの悪い五百蔵がハタモトさんのお名前をキチンと意識できだしたのは、ハタモトさんの写真を使った記事を集めているマガジン↓に自分の記事を加えてもらったことがきっかけでした。
 こんな経路でお名前を覚えることもある、ということのひとつとして、書き添えておきます。

「https://note.mu/aoneko/m/m2adb9e6fd0d0」

・◇・◇・◇・

 

 さて。
 ハタモトシンイチさんのどんなところが感覚的に合うのだろう?と考えることは、「エモい」が苦手なことの謎を解くカギになるのではないか?と思い、ずっと温めていました。

 温めていた卵に孵化のきっかけをくれたのは、春日東風さんが紹介してくれた、足利義満の短歌です。

薄氷(うすごおり) なほとぢやらで 池水の 鴨のうき寝を したふ波かな
                (足利義満 1358〜1408)

「https://note.mu/kasuga_kochi/n/n82d01433009f」

 この短歌に、自然を観察する科学の目を感じました。
 寒い朝の薄く張った脆い氷。鴨の温みのせいか、一面に張り詰められないでいる。そして、風が吹くのか、鴨がわずかに身動きするのか、ちいさく波が立っている。
 歌に描き出されているのは、観察したまま、ただそれだけです。

 それと同時に、池水にねむる鴨が凍りついてなくてよかった、と安堵する優しさと、「もー、わてら、あんさんのまわりでしかちゃぷちゃぷできまへんのや〜!」と、中川礼二か今田耕司みたいな口調の、さざなみのボヤきが聞こえてくるような気がしました。

 (いや、もしかしたらこのとき義満は、切迫した状況ににっちもさっちも行かなくなっていたのかもしれません。
 状況に迫られて、鴨のまわりのさざなみ程度にしか自由が効かなくなっていたのかもしれません。その時、さざなみが鴨をしたうが如くたのみに思っていたのはいったい誰だったのか?
 そう考えると、なかなかに緊迫した歌ともとれ、面白いです。)

 

 義満の歌に感じた、こんなふうな客観的な目と、己の心情がしのびやかに重なったような感じ、以前、別の室町の短歌でも感じたことがありました。

ほどほどに 見るにはかなし 蛛(くも)の網(い)の それにもかかる 虫の命よ 
               (後柏原天皇 1464~1526)
           注) ほどほどに=それぞれの分際で。

「https://blogs.yahoo.co.jp/sakuramitih26/64102055.html」

 後柏原天皇がどんな人物かはわかりません。
 だけど、この人はじっと見ている。か細い線で織られたクモの巣も、獲物をじっと待つクモも。もしかしたらすでに、小さな羽虫がクモの網にとらわれているのかもしれない。

 この人は、とにかく、クモの網は獲物を捕えるためのものであり、捕えた獲物をクモは食べる、という、現代の昆虫図鑑にふつうに載っている生態を知っている。
 その生態に対し、クモが残酷だとも、食われる羽虫が哀れだとも、人間の自分勝手な主観を乗せることなく見ている。

 ただ、自然の見せた事実にそっと、時代の空気や己の立場やそんなものの非情と無常を見いだし、重ね合わせている。

 

 この人は。
 己の見たまま、自然のありのままを写生しながら、かつ、自分の感じていることを写し取るにふさわしく言葉を選んでいる。

 そのように思われ、ぞっとしました。

  

 こんなふうに、室町時代の短歌はどうも、客観的な観察の目、というのが特徴のひとつのようです。一般的に親しまれている百人一首の短歌たちとは違う趣があります。
 せっかくなのでもう一首。

霜ふかき 籬(まがき)の萩の かれ葉にも 秋のままなる 風の音かな
                (足利尊氏 1305〜1358)

「https://note.mu/kasuga_kochi/n/nbaa0ca0bf5d0」

 萩の花 = 秋を代表する赤い花。
 秋の風 = 秋(飽き)の別れの風。

 それが伝統的な短歌のお約束です。
 しかし尊氏は、霜が降りて白く氷った冬の萩を見て、すがれた萩を揺らす冬の風の音を聞いて、平安時代からのお約束に縛られない趣を見出しているようです。

 穿ち過ぎかもしれませんが、尊氏はこうも言っているように思えます。
 秋に吹いても冬に吹いても、風は風。それをものさびしく感じるか感じないかは、人の心しだい。
 そううそぶきながら、「秋風(男女の仲のすき間に吹く「飽き風」)」という掛詞のお約束の虚飾を容赦なく剥ぎ取って見せているような気すらしてきます。

 実際に戦陣にあった尊氏にとって、風とはまず、近付く敵の軍馬の嘶きを知らせてくれるものであり、その日の天候を占うよすがであったはず。戦地で一夜過ごす味方が、夜のうちに降りる霜にみじめな思いをせぬように思案を巡らすことも、総大将のつとめであったことでしょう。
 ならば必然、 ものを見る目は客観的に自然を観察する科学の目でなければならず、寝殿造りの館に籠もって歌合に興じていたころの貴族たちとは全く違う目、違う耳で自然を捉え、歌に詠んでいたのではないか、と思われるのです。

 

・◇・◇・◇・

 

 百人一首に取り上げられている短歌は、それはそれで魅力的です。技巧が凝らされ、夢のようなきらめきがあります。平安時代が歌作において、ひとつの頂点を極めた時代であったことは間違いありません。
 だけど、どの歌においてもまず押し出されるのは、己の心情です。
 万葉の短歌もそうです。万葉の短歌は素朴ですが、素朴なだけかえって、「うぉー!」と吠えるような力強い詠み手の感動が暑苦しいほどまでに押し寄せてきます。

 それにひきかえ、これら3首の室町の短歌は、まずは客観的な情景描写ありき、のように思えます。詠み手はとおくから情景を眺めています。まるで両者の間には、透き通った隔てがあるかのように厳然と分かたれています。
 だけど、歌に描写された情景には、詠み手の心情も密やかに忍び込まされています。
 詠み手は、情景を描写しながら、己の感じたことを短歌の中に写し取れれる言葉を選んでいます。それこそまるで、己の感じたことを魚拓のように刷り取ることができる言葉を。

 ひとたび、この彼我がつかずはなれずしながら一体化したような透明な写実の世界を知ってしまうと、平安時代の短歌の技巧がこれみよがしで、ウザったく感じられるほどです。

 

 ハタモトシンイチさんの写真からも、同じような作用が感じられます。

 まずは、対象ありき。
 対象をあるがまま、写実的に写し撮っている。
 それだけでなく、ハタモトさんの感動を感じたままに写真に写し撮ることに成功している。

 たとえば、普通のトマトととマイクロトマトの写真。
 まるでガリバーとリリパット族のようで、新鮮な驚きに満ちています。

 2つならんだ玉ねぎの写真。
 もともとの写真は玉ねぎはちいさくすみっこに写っていたのですが、ヘッダーに据えなおすために拡大して彼らにちかよると、人間にはきこえないほどひそやかにおしゃべりしているのが見えてきて、愛しいです。

 けさらんぱさらんの写真。
 「こんなところに!」という発見の驚きと、「なにかいいことがありそうな!」という晴れやかな気持ち。

 どこまでが偶然でどこまでが作為かはわかりません。だけど、ハタモトさんは、必要以上に対象に手を触れることなく、ありのままにカメラにおさめている。かつ、ハタモトさん自身の感動もちょうどよい加減に写真に写し撮れるように、対象との距離感や、向き合う角度や、画角の切り取り方や、色調や、ありとあらゆる工夫をしている。

 実際にどうなのかはハタモトさんご自身の知るところですが、ともかく、五百蔵にはそのように感じられます。

 

・◇・◇・◇・

 

 こんなふうに、対象と自分の感動を、ありのままに移し取る。移し方にはにテクニックが必要なのはいうまでもありません。原型を、言葉や写真術というばれんで刷ったり、プレスしたりして移し取るのですから。
 だけど、移し取られたものはありのままだから、押し付けがましさがない。テクニックも、見せつけるものでなく、写実のための手段なので、対象の後ろに隠れています。

 だから、余白がある。
 詠み手や写し手の見せてくれたものに、さらに見る人の想像をふんわりと載せ、羽ばたかせることのできる余白がある。
 ただ、ありのままを晒しているだけから、想像することは受け手の自由にゆだねられているのです。
 そこには「エモい!」という言葉で称賛を送る必要はありません。
 あるのは、送り手と受け手とそれぞれの、感動の発信です。

 逆にいうと、「エモい」ものには、受け手の想像のための余白がない。ただ、送り手と同じ方向に顔を向けて「エモいね!」と表明する自由しか無いような気分になって、息苦しくなってきます。

 

 ところで。
 対象と、自分の心情と、移し取るテクニックと、受け手の関係は、こうも例えることができます。

 家族のために味噌汁を作る。美味しいね、温かいね、と喜んでもらうことが嬉しくて、出汁や具材に工夫をして、ベストなタイミングで食卓に運ぶ。
 その美味しさと、作り手への感謝は、家族それぞれが自分のやり方で感じ取り、表します。作り手は、「たまにはすなおに美味しいってゆって!」と思いながらも、過度に干渉することはありません。

 だけど、もしこの味噌汁に、インスタ映えを狙って見栄えのためのテクニックを凝らしていたら……
 捻れた目的から発した不必要な装飾が、なにか大切なものを損なってしまったように思われます。
 装飾は嬉しいことのあった日の嬉しさを発露するためのもの。それでこそ生きるものです。

 そうです。装飾もまた、嬉しいという気持ちを移し取るためのテクニックのひとつなのです。

 

・◇・◇・◇・

 

 こんなふうに考えてくると、「みんなのギャラリー」にエモい写真が並んでいることは、その数だけ「ありのままを移し取ることに不自由している人」がたくさんいる、ということかもしれません。
 ついでながら、「みんなのギャラリー」は野鳥、特に小鳥の生態を写したものがほぼ皆無で、その意味では使える写真が全くなく、五百蔵はいたく不満です。だけどそれもまた、むべないことかと思われてきます。

 それどころか、個性と実績を賑々しく書き連ねたエントリーシート無しには就職にこぎつけることのできない世相を反映しているようで、痛々しくも感じます。
 目立たなければ浮かぶ瀬も無い、というのはたしかですが、だけど、浮かぶためには目立つしかない、という世界は、なかなかにしんどいものです。

 

 毎秒ごとに「好きにさせてくれ!」と主張している五百蔵が、受け手の空想の余白のない「エモい」と折り合いが悪いのも、どうやら当然といえば当然のようです。

 ねがわくば、世の中がもっとゆったりと、誰もがのびやかに、ありのままでいられる世界になりますように。

 そして、磨くならば、見たものと己の心と、ありのままを移し取ることのできる「写実」のためのテクニックを。

 

 最後に。
 素朴な「版画」ほど的確に選ばれた言葉に支えられていることを示す短歌を。

たのしみは ふと見てほしく おもふ物 辛(から)くはかりて 手に入れしとき
                  (橘曙覧 1812~1868)
            注) 辛(から)く=やっとのことで。
               はかり=企てる、方法を考える。

「https://blogs.yahoo.co.jp/sakuramitih26/64343492.html」

 江戸時代ともなると、言い回しも現代により近くなり、すんなりと理解しやすくなってきます。
 この歌も、ふと見て欲しくなった物を、お金をあれこれやりくりしてやっと手に入れた、それが私の楽しみである、とありのままを詠んだだけのものです。

 にもかかわらず、この歌は、充実している。充実しているのに空っぽだから、私たちの空想をめいっぱい詰め込むことができます。空想を詰め込みながら、私たちもなんだかうきうきしてきます。

 それはまるで、サンタの袋の中に、世界中の子どもたちのためのプレゼントを詰め込めるかのようではありませんか!

 

 

 

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《140字の日記》のマガジンもあります。
https://note.mu/beabamboo/m/m855ee9417844

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熟成下書き

いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。