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エモいがキモくてごめんなさい ①語感が苦手《140字の日記+ 50》#熟成下書き

「エモい」の「え」は、「得体のしれない」の、え。「得も言われぬ」の、え。
「エモい」の「も」は、「もののけ」の、も。「キモい」の、も。
どう考えても日本語としての居心地がわるくて、この言葉には、なるだけなら近づかないでいたいと思う。対象を見定めぬまま陶酔に溺れる感じが、嫌だ。

 

 

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《140字の日記》のマガジンもあります。
https://note.mu/beabamboo/m/m855ee9417844

 

 「#熟成下書き」の蔵出しです。最初の日付は今年の7月5日になってます。
 このころは、「エモい」が苦手で苦手でたまらず、めっちゃ戦っていたようです。

 この数日でやっと、「エモい」と五百蔵と、どのへんが立ち位置が違うか見えてきたような気がしたので、こちらを①として蔵出しし、最近、見えてきたことを②として書きたいと思います。

 

 

 

 「エモい」ということばが苦手です。
 意味がわからないし、ひびきが気持ち悪いし。

 意味がわからないのはやむを得ません。英語の「エモーショナル」を無理やり形容詞にしたものだから。

 でも、それはさておくとしても、語感の気持ち悪さはかんべんしてほしい。
 「え」も「も」も、冒頭に並べたとおり、あまり気持ちいいことばが連想されません。

 

 とくに、日本語ではあまり用いない「え」の音がおさまりが悪いです。それは、「あいうえお」それぞれの音を、感嘆詞として発する時を比べてみればすぐに明らかになります。

 「あっ!」……危険なとき。または、虚をつかれた驚きをもって気づくとき。
 「いっ!」……自分におちどがあるのに気がつき、ごまかそうとしたいとき。
 「うっ!」……腹が痛いとき。または、完全に窮地におちいったと悟ったとき。
 「おっ!」……よきものを見出して、豁然としたとき。

 だけど、

 「えっ!」……意想外のものが飛び出してきて、受け入れ難かったり疑ったりするとき。

 このように並べるとわかりますが、
 口をまるく開く「あ」「う」「お」は、その状況を、まずは受容しているのに対し、
 口を横に開く「い」「え」は、目の前でおこった事態を受容することを、いったん拒絶するために発せられます。

 「エモい」の最初に拒絶の音がくるのは象徴的です。

 

・◇・◇・◇・

 

 そもそも五百蔵は、「エモい」ということばの表す情緒がよくわかりませんでした。ですが、このnoteの「みんなのギャラリー」を見るうちに、すくなくとも写真における「エモい」がなんとなくわかるようになりました。
 ていうか、たぶん、ここの写真のかなりがエモい要素が入ってるやつです。だから、いやおうなく「エモい」が見えてきたようです。

 ですが、これだけ大量に「エモい」を目の前にすると、文字通り「キモい」としか感じられず、「どうぞかんべんしとーせ……_| ̄|○……」と、逃げ出したくなります。

 なぜ逃げたいのかというと、五百蔵の情動を強引に動かそうとするなにかが透けて見えるからだと思います。
 そして、自然な感受を拒否され、提示者の望む情動に誘導されようとすることに対する、強烈な拒絶があるからだと思います。

 

 だから、五百蔵の考えによると、コンテンツにおける「エモい」を定義するとしたら、

 コンテンツの提示者が見る人に対して、
 ともにひとつの情緒に溺れることを要請すること。

 だから、この場合の「エモい」は情緒ではなく、本質的にはコンテンツの見せ方の技法だと、五百蔵には思われます。

 

 そもそも「エモーショナル」という英語が「感情に流される」ニュアンスがあるように思うので、「エモい」は実に絶妙な名付けだといえます。

 ことばの冒頭に拒絶をイメージさせる「え」の音が来るゆえに、「拒否する者をも、強引に一定の情緒に巻き込む」というニュアンスが、「エモい」という語感からより敏感に感取せられるような気がします。

 

・◇・◇・◇・

 

 そんなわけだから、記事のヘッダーの写真を選ぶときは、

 ……う、ううううぅぅ……

 などとうめきながら写真を選んでいます。

 

 でも、不思議なことに、その記事にふさわしい写真が、必ず、ちゃんと1枚、すでに用意されていることが多いんですね。
 エモいが苦手な五百蔵としては意外なのですが、ぴったりの写真がなくて探しあぐねたことはあまりないです。わりとすぐに、どれか1枚が浮かび上がって見えます。複数の候補から迷うということもあまりないです。

 結局、写真における「エモい」、というのは、構図のとり方や余白のあり方に左右されているのであって、よけいな額縁をとっぱらったら、対象を真摯に見つめ、捉える眼だけが残るのではないか思います。
 たしかに、五百蔵が選んだ写真のほとんどは、写実に徹しているか、対象を愛おしんでいるかのどちらかに思えます。

 そうやって撮影者が真っ直ぐに捉えた対象を、五百蔵があらためて、noteのヘッダーのサイズにトリミングし直す。
 そうすることにより、過剰なエモさは切り落として、いまいちど、記事の内容にふさわしく対象を据え直す、という作業をしているのではないか、という気がしています。

 

・◇・◇・◇・

 

 ところで、観察の対象が「エモく」感じられたとき、それはべつに「エモい」という言葉をつかわずに表現する努力をしたほうがよいのではないか、と感じます。

 「エモい」ということばを発した瞬間に、その人が、その「エモい」の対象に、のめりこみそうなほどぐらりと心がゆらぎ、情動が動かされたことはわかりますが、その情感の動揺の正体は何なのか、表現できる言葉に乏しい日本語ではないと思うのです。

 それに、言葉による表現の努力を出しおしむことは、観察の目の精度をみずから劣化させることにほかなりませんから。
 また、感情に押し流されることは、対象にたいして細やかな観察の目をくばることの放棄のように思われます。

 

 また、「エモい」を「もののあはれ」にたとえることもあるようです。

 ですが、「もののあはれ」においては、情緒は対象のものごととおのれとの間で完結し、読み手はその両者の交わりを外から観察し味わっていると思われます。
 書き手によっては、おのれの感受性の細やかさを誇示することがないわけではないと思いますが、情趣はあくまでおのれと対象との間にとどまっている。

 それに対し、「エモい」は「エモい」と名付けたシチュエーションやおのれの情緒に、読み手を巻き込もうとする意図、もしくは、「エモい」を感じているおのれに注目してほしいという欲望が、なぜかすでに語感から感じられます。

 だから、五百蔵は、「エモい」という言葉には「もののあはれ」にはない図々しさを感じます。そして、わざわざ「エモい」という言葉を創出せねばならなかった理由は、SNS全盛の時代の自己顕示欲や、だれかにおのれの感情を同意し、肯定してほしい欲望にこそあるような気がします。

 

・◇・◇・◇・

 

 それでもなお、とらえきれないのだとしたら、「エモい」のほんとうの正しい訳語は、

 「あやしうこそものぐるほしけれ」

 なのだと思います。

 

 「得体のしれないもののけじみた力を及ぼしたがるえもいわれぬ情緒」

 そう言っておくことにします。

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熟成下書き

いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。