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どうしてnoteを始めるのか?

noteを始めることにした。

実は3回目くらいの決意である。

1回目は、社会問題みたいなことを書こうとして、2つ目の記事で何も書くことが無くなってやめた。普段から考えていないことなんて、書けなくて当然だ。

2回目は、自分の体験談を面白おかしく書くnoteをしようと思った。朝井リョウさんのエッセイを読んだからだ。目標を高く掲げすぎたせいか、変に空回りして、自分でも読むのがこっぱずかしくなってしまい、削除した。情緒不安定な女だ。

そしてまたnoteを始めようとしている。懲りない。

文章を書くのが好きなのだ。

人には人のストレス発散法があると思う。(この構文、「乳酸菌」と続けたくなってしまう)

ストレス発散法として、甘いものを食べまくる人もいるだろうし、寝まくる人もいるだろうし、めちゃくちゃ運動する人もいるだろう。

私は、人に話すことがストレス発散法なのだと思う。

こんなことがあった、これが嫌だった、あの時どう思った、ここがおかしいと思う…。
人に話して初めて自分の考えを整理でき、そして相手の共感を得たり、話し合ったりすることで、私のストレスはすとんと落ちていき、体の外に流れていくのである。


ただ、同時に、私は自己表現が苦手な人間である。

話しながら、「この話、誰が聞きたいねん…」と思ってしまうし、なにより、「この人、私と生きている世界が違うな」と思う人には簡単に心を閉ざし、(まあ、あなたには分からんでしょうが…)という枕詞を心の中で付け足してしまう。(最低だ)

話したいのに、別の自分がそれにブレーキをかけて、踏みとどまらせようとしている。自分の意見は十分に言えないまま、相手の意見に迎合する言葉を考えている。

でも、「書く」なら別だと思う。

書くことは、どちらかというと孤独な作業のような気がしている。
別に、面白くなくても、誰に向けた文章でもないし…と開き直る余地が残されている。

相手に読むことを無理強いしない。「面白そう」と思ったら読み進めて、「これは合わないな」と思ったらスルー出来る。そして何より、私は誰が最後まで読んで、誰が途中でやめたのか、知るすべがないというところがいい。

そう思うと、noteはでっかい独り言なのかもしれない。

もちろん無視する人もいる。盗み聞きする人もいる。もしかしたら、何を話すんだろうと思って、なるべく離れない人もいるのかも。「この人と私、すごく気が合うじゃん!」って思ったら、独り言の内容にレスポンスがあるかもしれないし。


つまるところ、私は書くことが好きで、そして「あなたの書く文章は面白いよ」と言ってもらえることが嬉しくて、私はやっぱりnoteをやめられないのだと思う。

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