舞踏という変容の世界にはいってみた

私の身体史、という本がある。
原初舞踏家の最上和子さんという方の本だ。

からだの感覚なんてわからないなぁと感じていたこともあり、
稽古に参加したいとずっと考えていたが、
新型コロナウイルス感染症の蔓延により参加できず。

舞踏をみてみたいと想いをつのらせていたところ、
11月7日の儀礼立ち会いのお知らせが来て、迷うことなく参入に手を挙げた。

迷わず挙げたけども、まったくの素人がみにきてええんかいな、、と
当日はちょっと緊張。
最近控えていたコーヒーで一服してから会場へ。

舞台は自由学園明日館の講堂。
今年が創立100周年にもあたる年だそう。
重要文化財でもある、フランクロイドライト設計の講堂内部に入ることができたのも
建築好きとしては僥倖だった。

むかいの教室棟では、新たな門出の祝いに集う人々。
思わず顔がほころぶ。

検温を終えて、会場に入ると、
ど真ん中にカメラを支える、光沢を押さえた黒色のカメラワーク用の梯子の存在感に目を奪われた。
かくかくしているんだけれども、なんだか蛇のような。

カーペットが敷いてあるあたりが舞台なのだろう。
後ろにドアがあるから、ここから出て来られるのだろうかなど、
想像しながら席を決めるのもちょっと楽しい。
舞踏自体を見たことがなかったので、あえて情報はほとんどいれずに来た。

あたたかなまあるいライトや、窓越しの植物の美しさに
みとれながらぼんやりすごす。

カメラのカウントダウンが始まると、一気に空気が緊張した。
どんな景色が立ち上がるのだろうと、息を思わず止めていた。

厳かに人形を捧げながら現れる最上さん。
前に進んで、ちょっと下がって?みたいな歩き方をしていた。
私たちの通常(と思われる)とは全く違うスピードの動きを
ずっとみていると、時空が歪むような、違う世界に引き込まれていった。
みていると、みているのに一緒になっているような。

最上さんがただただ大切そうに人形を抱えていた(ように見えた)のが、
突然人形(ひるこさんと呼ぼう)の目に光が宿り、
ひるこさんが別の生命体として命を吹き返したような、
最上さんに動かされているような、最上さんを動かしているような、
どっちがどっち?という2者の関係のあわいに引き込まれていった。

全身丸ごと集中していたから、ちいさな変化にも感覚が動く。
明日館は木造メインなこともあり、
最上さんのあゆみの一つ一つに床がギシリと音をたて、
そのおとそのものが背景音となっていた。
さらに人形の球体関節の動く音がマイクで拾われると、
明日館全体に広がり、音によりつつみこまれるのが心地よかった。

最上さんとひるこさんが横たわり、

ひとつの世界が終わっていくのを見届けた。

ことばにはできない世界。。。
他のドーム作品はまだみていないが、一番最初の舞踏経験が今日でよかった。

全ての瞬間を見逃したくないと最高に目を見開いてほぼ動かずに没入した結果、
思考が吹っ飛んでいき、終了後の20分は再びスイッチが切れたようにぼんやり。
眼で受け止めて、こころで感じて。

アフタートークもほんわかした雰囲気で面白かった。
映像がもつ“ずれ”としての表現の可能性や客席ー舞台構造における踊り手の不自由さなどについてお話をしていただき、表現そのものの解像度の高みにめうろこぽろぽろ。
すきな写真で、“自分なりの視点としての表現“がしてみたくなった。

ひるこさんのデザインの由来など気になった。
(意外と重くて硬いらしい。。素材なんなのだろう。。最上さんと一緒に踊ることを前提としてうまれたのかとか)

アーカイブでは、どんな世界に出会うことができるのだろう、
今から楽しみだ。

貴重な時間にたちあえて、しあわせだった。

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