切り捨てるのではなく底上げる
私が好きな創作キャラクター像の一つに、“報われない強者”というものがある。
これは日本の教育観で培われた独特の感性なのではないか、それが今日の考察だ。
そう思ったきっかけというのも、最近ドイツの歴史教育に関する授業を受けており、ドイツの教育制度と日本の教育を比較してそう思った。
教育制度の差だけでなく教育観もだ。
まず日本とドイツの教育で明確に違うのは、日本は受験をしない限り小学中学は無条件に地区の学校に通うが、ドイツでは10歳の段階で成績順に3種類の教育課程に分かれて、日本の中学生の段階では大学進学コース、普通科コース、職業訓練コースに進学がわかれるということだ。
大学進学コースは同年代の多くて四割しか進めないコースで、大学進学を賭けた最終試験は、歴史でさえ試験時間210分の論述問題が出される。
具体的な問題例を挙げよう。
「1989・90年の東ドイツの出来事に対し、「革命」という言葉はどの程度まで妥当といえるかを述べなさい。」
このような抽象的で誘導のない問題が5.6問出るのだ。もはや日本の大学院レベルの問題なのだ。多大な知識と思考をまとめる正確な文章で表現する力が高校卒業段階で求められるのが、ドイツの高学歴層なのだ。
ただ興味深いのは、到達目標のレベルは異なるものの、学習で得たい素質の基準はどのコースも一緒なのだ。教師の話を聞いて理解して、出来事の名前を覚えるだけでなく、歴史を解釈するために知識を活用する力が、職業訓練コースでも求められるのだ。
ここからわかるのは、日本では暗記するためにとにかくわかりやすく面白いエピソードのみを切り取る歴史教育は、歴史に興味のない層に合わせた教育観なのだ。どの生徒も置いていかないよう教育する、公教育はクラスの平均学力に合わせる教育体制が基本となるだろう。
ドイツの教育制度は一見文化資本が高い家で育ったような高学歴層のみを育成し、低学歴層を切り捨てるような教育に見えるが、そうではなく、高学歴層に合わせて全体的に底上げする教育観なのだ。
これを聞いてハッとしたのだ。
弱者に足並みを合わせるのか、強者に足並みを合わせるのか。
日本では学力強者側に教育を合わせるとなると、強い反発が生まれる。公平を重んじる。そこで学力強者の成長を奪うという話にはあまり焦点があたらない。
対して、ドイツでは確実に民主主義政治を支える強者を育てるのだ。弱者も強者についてこいと。
日本の創作では、NARUTOのうちはイタチのように、弱者に寄り添うが故に苦労する強者が存在する一方、アメコミ(ドイツではないが、ドイツの創作が違ったらすみません)のような欧米創作では、強者が強者のまま勝つのが王道だ。
“報われない強者”は欧米創作では単なる弱者なのだ。
このような“報われない強者”が存在する日本の創作の背景には、日本の教育体制があるのではないか、というのが今日の甘い考察だ。
ただ最近の日本の教育も、様変わりしつつある。高校の共通テストの世界史の問題がセンター試験に比べて、単純な暗記では解けないような、思考が必要な問題が増えたのだ。
歴史を専門とするような歴史高学歴層をうならせる問題だった。つまり徐々に高学歴層に合わせた問題にシフトしつつあるのではないか。
日本の歴史教育の未来も明るい。
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