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満員電車で、恋をしてみる

「“この人の子ども時代が知りたい”と思ったら、それは恋だ」

そのことばを聞いて、そうかもしれないなあと思った記憶がある。(誰が言ったのかは、忘れてしまった)


想像力を掻き立てられたら、それは恋になる。

「今何してるのかな」に始まり、「今日は何を食べたのかな」「いつもどんな本を読んでいるのかな」、連絡が来なければ「忙しいのかな」……想像には実体がないから、それは頭の中でどんどん膨らんで、とどまるところを知らない。


恋は、見えない部分にするもの。愛は、見えている部分に感じるもの。というのが、なんとなくの自論だ。

そう考えると、勝手な想像に思いをぶつける恋というものは、とても自己中心的で幼くて、浅はかなものに思えてくる。

だけど私は、日常に“恋”が入り込む余地を、少しだけ持っておきたいなあと思うのだ。

日々、目の前にどばっと流れてくる現実にいっぱいいっぱいになっていると、想像力はどんどんしぼんでいく。

それはなんだか、とても悲しいことのような気がする。

だからたとえば、満員電車の中で想像する。

目の前にいるおじさんも、子どものころ自転車に乗る練習をして、膝に何度もすり傷をつくったことがあるのだろうか。

後ろに立っているお姉さんも、中学生の頃、恋人と撮ったプリクラを携帯の電池パックの裏に貼っていたんだろうか。

優先席に座っているおじいちゃんは、子どもの頃に食べた家庭料理の味を、今でも覚えているのだろうか。


周りを見渡すと、みんな想像の余白を持っている。

最寄駅の駅員さんも、居酒屋でビールを運んでくる店員さんも、デパートでトイレ掃除をしているおばちゃんも、コンビニでレジを打つ中国人の女の子も。

みんなそれぞれの人生の始まりがあって、それぞれの大切な思い出があって、帰る場所があって、向かう場所がある。

外側からは決して見えないそれらを、私はほんのりと空想してみる。


想像力を掻き立てられたら、それは恋になる。

大人だからこそ、迫り来る現実に日々対峙しなければいけないからこそ。

幼くて自分勝手な想像に身を委ね、名前も知らない誰かに恋をする時間だって、あってもいいと思う。

そしたら、明日から少しだけ、おだやかに生きていけそうな気がするのだ。

あしたもいい日になりますように!