諦めながら言葉を尽くす

言葉にした瞬間に、心の中に抱えていたものの質量や温度がしゅんと消えていく、あの感じがすごくいやだ。

うれしい、悲しい、むかついた、感動した、好き、きらい。
言葉にした瞬間に、なんだかぜんぶ陳腐だ。

それは書き言葉よりも話し言葉の方が顕著。だから私はあんまり「話す」というコミュニケーションを信用していない。

「話す」はどうしても、場のリズムを守るためについ練りきれていない言葉を口にしてしまったり、言葉のニュアンスを相手のテンションに寄せてしまったり、そういうことが起こりやすいと思うのだ。

「言葉になる前の何か」を、せめて少しでも多く掬いたいとは思うけれど、やっぱりどうしても拾いきれない何かがある気がして、その度に誰かと歩み寄ることをやめたくなってしまう。
どうせここまでだし、と、お互いを理解できる範囲を決めて、線を引きたくなってしまう。

だけどこの前、ちょっと“言葉を尽くすこと”を諦めすぎていたかなあと、反省したできごとがあった。


***

この前、私が編集した原稿を見たある人に、こんなことを言われた。

「これ、どうしてライターさんがこういう書き方をしたのか、意図をちゃんと聞いてみた?」

彼の言い分はこうだった。

受け取った文章に赤を入れる前に、もっとコミュニケーションをとったほうがいいんじゃないか。
それは電話でも打ち合わせでも飲みに行くことでもいいけれど、相手の中にあるものをもっと引き出すために、何かまだできることがあるんじゃないか。

もっともであるし、その言葉に私を責めるニュアンスはまったくなかった。
だからすんなり納得すべきところだったけれど、なんだか喉にひっかかるものがあった。

その“ひっかかり”の理由を、ここ最近、ずっと考えていた。
そして、そもそも私は「キャッチボール」を諦めすぎていたのだ、という結論にたどりついた。


言葉をアウトプットした瞬間、その言葉は話者から切り離されて、すべての解釈は受け手に委ねられる。口にした側に、釈明の余地はなくなる。
コミュニケーションとは「相手がどう解釈するか」がすべてである。

そう思いすぎていたふしがある。つまり、ボールを投げっぱなしのキャッチボールを永遠に続けるようなコミュニケーションを、「当たり前」だと思っていたのである。


先の話で言うと、私は原稿の編集という仕事において、こんなふうに考えていたんだと思う。

受け取った文章の中で相手の思いを解釈するのが、編集者の役割なんじゃないか。
出てきた原稿以上に信用できるコミュニケーション方法なんて、あるんだろうか。


これは、「投げっぱなしのキャッチボール」以上のコミュニケーションなんて無理だよね?という諦めだ。

それはそれで、ひとつのあり方だとも思う。
でも、「相手の文章から心を解釈できる」と傲慢になっていたなあとも同時に気づいた。

「投げっぱなしのキャッチボールを永遠に続けるようなコミュニケーション」において、「書く」という行為はとても便利なのだ。「書く」に頼って、「話す」をおろそかにしていたなあ。


***

最近、周りにいる言葉のプロたちが、よく「言葉を尽くす」と口にする。
言葉はときに非力だけれど、結局は「言葉を尽くす」しかないんだよね。そういう話である。

前にも引用した気がするけれど、糸井重里さんが、ほぼ日のエッセイでこんなことを言っていた。

ことばにできたような気がするときというのも、そういう照明の下で、そう見えた写真みたいなもので、そう表現されたもののほんとの大きさ豊かさのほうが、ことばで言えてることの何百倍もあるのだ。
(ほぼ日「今日のダーリン」2018年4月5日)

言葉で表現できないものは、言葉で表現できるものの何百倍もある。
それを理解して、ある意味では諦めながら、それでも言葉を尽くす。

言葉のプロたちがそこまで努力しているのに、私はなにを諦めていたのだろうか、と猛烈にはずかしい。


どうしても「書く」に逃げがちである。
だけど、言葉を尽くしたければ、「書く」にとどめちゃいけないときもある。
面と向かって何かを言うことで伝わるものは、もしかしたら私が思う以上に、たくさんたくさんあるのかもしれない。

諦めながら言葉を尽くした先に、さらなる諦めが待っているかもしれないなあと思いながらも、そんなことを考えています。

あしたもいい日になりますように!