境界線不在で起こる変化について

今朝、キッチンのゴミ箱に溜まったゴミを出した。半透明の袋をゴミ箱から出して、口を固くしばったあと、手を洗った。手を洗いながら、ゴミじゃないものがゴミになる境界線のことをふと考えた。

野菜くず、お菓子の包みやティッシュ。もとはスーパーやコンビニにきれいに並んでいたものが、ゴミ箱に入った瞬間に“汚いもの”になる。ゴミ箱は、いわば境界線だ。


日常には、いろんな境界線が引かれている。コンビニのドアをくぐれば“客”になり、保育園のドアをくぐれば“○○くんのママ”になる。「付き合ってください」と言えば“友達”を超え、「お世話になっております」と言えば“取引先”になる。物理的な境界線もあれば、ことばが生み出す境界線もある。


境界線は、変化のスイッチだ。だからつい「変化=境界線を経て生まれるもの」だと思ってしまうけど、ほんとうは境界線を超えずにじわじわ起こる変化のほうが多いのかもしれない。むしろ、大事な変化ほど、境界線不在のもとで起こるんじゃないだろうか。


この前、都内のある駅で、ばったり学生時代の友達に会った。6,7年ぶりだった。「えー!」と驚いて少し話したのもつかの間、ぜんぜん話題が出てこない。何を話せばいいのかわからないのだ。

5分にも満たない立ち話のあと、また飲もうね、LINEするね、と言って別れた。“友達”は“友達”で傍目にはなにも変わっていない、なんの境界も超えていないけれど、また飲むことはないだろうなあと思って別れた。なつかしいような悲しいような、夕方の駄菓子屋みたいな切なさが残った。


自分にとって大事な変化ほど、境界線不在のもとで起こる。言ってくれれば気づけたのに、と思うけど、思ったときにはもう遅い。

日々ちょっとずつ変わっていくもの。今日の私と明日の私は同じではないこと。気にしようと思ったって、どうせ毎日の忙しさにかまけてすぐに忘れてしまうけど、二度と戻れない流れの中を生きているんだなあということ、頭の隅に留めておきたい。

あしたもいい日になりますように!