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「現実を見ろ」は、「諦めろ」とイコールじゃない(たぶん)

「あなたには無限の可能性がある」と言ってくれていた大人たちが、「現実を見なさい」と一斉に手のひらを返し出す瞬間。

まだ10代だったそのころ、突然訪れたその瞬間に、ああこれが大人か…と、意外と失望感のないさっぱりした諦めを感じたものだ。

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だけど最近思うのは、「現実を見ろ」=「諦めろ」では、たぶんない。

「現実を見ろ」は、きっと、「自分のできないことを知りなさい」なのだ。

東京には、「頭が良くて発想力に長けていて文章が上手で仕事ができてなんなら絵や料理も上手でしかもオシャレでかわいい」なんていう女の子たちがごまんといる。同じ時間を生きてきたとは思えないくらい、壮絶な修羅場をくぐり抜けてきた人や、果てしない努力を重ねてきた人だってたくさんいる。

「“こんなことぐらい”と思ってチャレンジしてみたら、全然できなかった」なんてよくあることだ。何かを守れるような気でいたって、1人を救うことさえままならない。努力ではどうにも挽回できないことだって、自分の力ではどうしようもない外部要因に人生を狂わされることだってある。

隣にいる人のことだって、全然わからない。伝えたいことをきちんと伝えるのは、不可能なんじゃないかと思うくらい難しい。

子どもの頃は自信を持って提示できた「善」「悪」の物差しは、大人になった今はびっくりするくらい頼りない。いくら虚勢を張ったところで、ケガも病気も死ぬのも怖い。

自分という人間は、想像以上につまらなくて弱くて、世の中を1ミリ動かすことすらとてもとても難しくて、可能性なんて少しもありそうにない。

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でも、だからこそ、そういう自分をちゃんと、まっすぐ見据えなくちゃいけないのだ。何もない自分を差し出して、ボコボコにされて、何回でもゼロになって、とてもとても遠い目的地までの距離に打ちひしがれなきゃいけないのだ。

それできっと、自分ができないことを、「できません」と言える勇気だって必要で、

そうやって助けてもらわないと、「あの人にはできて自分にはできない」ことをきちんと見ないと、少なくても私は、1人では何にもできないのだ。


何かにつけて、岡本太郎の「人生は積み重ねだと誰もが思っているようだ。僕は逆に、積み減らすべきだと思う」ということばを引っぱってきてしまう。

積み減らす、は、ゼロになる勇気のことだと思っている。ゼロになるのは、怖いしダサい。ゼロになったものをまた1から積み上げるのは、辛くてしんどい。

「どうしてあの人は」「どうして私は」なんて比較しないで生きられたらきっと穏やかだろう。でももうしばらくは、そんな達観できそうにない。

嫉妬はするし足りないものが見つかれば悔しいし、だけどできないものはできない、別の誰かにはなれない。現実は見るけど、それは諦めるという意味じゃない。

「やりたいことをやる」のはそういうことだと、私はおもう。

おやすみなさい!

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あしたもいい日になりますように!

いえーい!\(^o^)/
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Chihiro Bekkuya

いつも迷子です。

「はじめからなかったこと」と同義にしたくない日々のこと

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