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自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

10代のころ、「時間が解決する」なんて嘘だと思っていた。

失恋は永遠に辛かったし、失敗はいつまでも後悔したし、卒業式の先に明るい未来なんて見えなかったし、友達との間にできたわだかまりはもわもわと留まり続けた。

だけど気づいたら、偉そうに「時間が解決するよ」なんて口にする人間になっていた。

明るい未来なんて、と思ったその先はきちんと明るかった。(もちろん暗いときもあったけれど)
彼以上に好きになれる人なんて絶対いない……はただの思い込みだった。
あの頃はさあ、と笑って話すことを覚えた。過去は過去として、生きていけるようになった。

それはある意味希望だ。「時間が解決する」を信じることができたら、心の消耗度はだいぶ軽くなる。

だけどだけど、傷つくことは確かに減ったけど、それは感受性を殺していることと同義とも言える気がするのだ。

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「時間が解決する」を知らない世界は、とにかくハイリスクだった。

全力で目の前のものを信じるというのは、感情がぐわんぐわん揺れまくる消耗戦だ。でもそれは、建前でなく心がきちんと物事に反応して動いているということだ。

「どうせ今だけだし……」「まあそのうち忘れるし」という防御ナシで、世界に体当たりできているということだ。

そういう世界から脱してしまった今、どうやって生きていくべきだろうと考えて、
ああこれは、ハイリスクを自分の手で選ばないとだめだ、と思ったのだ。

失敗したら傷ついたり恥ずかしかったりすることに、ちゃんと挑んでいきたい。

たとえば好きな人に好きだと伝えること。高くても心の底から気に入った洋服を買うこと。何食べたい?と聞かれたときに「○○が食べたい」と意思表示をすること。空模様を信じて、傘を置いて出かけること。全力でやった仕事なら、「全力でやり切った」と堂々とすること。

全力でやって結果が伴わなかったら、恥ずかしい。意見を述べて反対されたら居心地が悪い。奮発して買った洋服が汚れたら悲しい。だけどその瞬間に心はぐわっと動く。そうやって、心の振れ幅は自分で守る。守備に徹して穏やかに生きるのも悪くないかもしれないけど、まだそういう時期じゃない。

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学生のとき、貫き通したポリシーの一つが、テストの前にきちんと勉強したなら「めっちゃ勉強した」と表明することだった。

つまらない、他人からしたらどうでもいいことだ。だけど小学生から大学生まで、これだけは守った。「全然勉強してない」という守りの言葉は絶対に使いたくなかった。

「めっちゃ勉強した」のに赤点をとったこともある。そういうときは「勉強したって言ってたじゃんw」とバカにされるけれど、それはそれでいいのだ。そのささいな消耗で、守れるものもあった。

あのときの気持ちを忘れないまま大人になりたい。それが、「感受性を守る」私なりの方法なのだ。

(写真は、茨木のり子さんの詩集『おんなのことば』より)

あしたもいい日になりますように!