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7月3日、下北沢で

「向日葵の花言葉をはじめて調べた」

ベッドサイドの間接照明に照らされて、いつになく丸みのある声でTは言った。

人を好きになるってどういうこと? どんなときに自分の恋心を自覚するの?と怒涛の質問を浴びせた後に返ってきた答えが、これだ。


「その子が向日葵が好きって聞いてから、なんか俺、向日葵のことばっかり考えちゃって。下北沢の本屋で働いてる子なんだけどさ。こないだその本屋で花言葉辞典を買って、向日葵の花言葉を調べてみた。それで、あー、俺あの子のこと好きだなって」

なるほど確かに、こいつが花言葉辞典を眺めてニヤニヤしている様子を想像すると、気持ち悪い。「自己制御できないくらい、人を気持ち悪くカッコ悪くしてしまうのが恋だ」と誰かは言った。

恋をしたら、Google検索じゃなくて花言葉辞典なのだ。きっとそういうことなのだ。そしてTは最近、恋をしたらしい。そういうことだ。


「わかったような、わからないような」

私は柔軟剤の香りにまみれた枕に顔を埋める。

「わかるよそのうち」

Tは有線のスイッチを入れようと、私の頭の方に手を伸ばす。太めの二の腕が白いシーツに影を作り、アデルのハスキーな歌声が流れ出した。


この世に生を受けて25年。父と母の愛の結晶としてできたはずの私は、まだ恋を知らない。

なのに、ドラマの主人公も、学生時代の同級生も、年下の従姉妹も、Tも、みんないとも簡単に恋をする。なぜ。なぜ。なぜ。


「風呂にお湯はってくる」

Tはのそのそとベッドから降りて、浴室へ向かった。


間接照明の柔らかい光の下で、シーツが波打つ。その先で、デジタル時計の緑が点滅する。AM1:15。

いつのまにか金曜日は土曜日になり、6月が7月になった。

私たちが会うのはいつも、名前はダサいけど設備は悪くない、渋谷道玄坂のラブホテルだ。

***

道路が桜の花びらに埋め尽くされていた時期だから、もう3ヶ月ほど前になる。私は、学生時代から好きだったバンドのライブに、2年ぶりに足を運んだ。

入社3年目を迎えて、私はいよいよただの“会社員A”だった。渋谷の街に出たら“通行人A”。私はこの街で何者でもない。3月に初めての契約更新をした久我山のワンルームに、未だ表札は出していない。

東京は思ったよりずっとつまらない場所だった。


2階建てのライブハウスのアリーナ。一人でモッシュピットに飛び込み、タオルを振り回し、ペットボトルの水をぶちまけた。汗でぬめる手足。張り付く前髪。点滅するライト。闇に浮かび上がる輪郭。2時間なんて一瞬で過ぎた。

体を侵食するすべての毒を放出したような、興奮と穏やかさが入り混じった爽快感と共に、ライブハウスをあとにする。一歩外に出ると、後ろからの冷たい夜風が髪の隙間を勢いよく通り抜けた。それに混じって男の声が飛んできた。

「あの、すいません」

私は振り返る。

「一瞬でいいんで、ケータイ借りてもいいですか? お金払うんで」

そいつは「会場でスマホ落としちゃって」と付け加えた。髪がボサボサだった。憎めない笑い方。それがTだった。


***

「どんな子?」
「何が?」
「その、向日葵の子」

2人入ってもスペースが残る湯船で向かい合い、虹色のライトをオンにする。

「んー、なんか、ほわっとしてる」
「どこで知り合ったの?」
「会社の先輩の友達」

紫やら青やらの光が、もわもわとTの輪郭を彩る。私はライブハウスのステージを思い出す。

「かわいい?」
「うん、めっちゃかわいい」

光はゆっくりと色を変える。赤、ピンク、黄色。

「私とどっちがかわいい?」
「うわ、何その質問。重っ」
「冗談だよ、調子にのるな」

私は湯船のお湯をTの顔にバシャンと浴びせた。笑い声が湿度に満ちた浴室内に響いて、やけに大きく聞こえる。

私たち以外、世界中のみんなが眠ってるみたいだ。この時間だけ、私はこの街が好きになる。


***

7月最初の月曜日。

8時57分発、井の頭線渋谷行きに乗った。渋谷駅、宮益坂上の古いオフィスビルでパソコンに向かった。会社近くの500円ランチを食べた。夕方、書類の日付が1日違うという些細なミスで小言を言われた。

何食わぬ顔で訪れ、何食わぬ顔で過ぎ去ろうとしている、つまらない月曜日だった。はずなのに。

18時40分。私は今、下北沢駅にいる。


「下北沢の本屋で働いてる子なんだけどさ」とTは言った。店の名前は、あの日聞いたから覚えている。


大通りを1本入り、人通りがまばらになる細い路地にその本屋はあった。ドアを開けると、入口にかかっている鈴がちりんと鳴った。私の部屋を2つ並べたくらいの小さな店は、夕暮れの静かな熱に満たされていた。


「いらっしゃいませ」

木でできた床。古本と新刊が入り混じった、頭の高さほどの本棚が並ぶ。そして私は、奥に立つ声の主を見る。

頭の左側あたりで常にその存在を気にしながら店内をうろつき、いろんな本に手を伸ばす。ヒールの音が響く。粉っぽくどこか甘みを含んだ、古本の香りが漂う。ニューシネマパラダイスのテーマが小さく流れている。

端の本棚から1冊の本を手に取り、レジに向かった。“向日葵の彼女”はこちらを一瞥して、ニコリとする。

ゆるいパーマの黒髪ショート。白くて細い首。長いまつげ。花柄のシャツに、小さなパールのピアス。

この子に違いない、と私は思う。理由はないけれど、わかる。

彼女はていねいにレジを打ち、トレイの上できちんと釣銭を数えてから、本を茶色い紙袋に入れた。

「ありがとうございます」


***

まっすぐ帰りたくない日というのがある。

夕焼けの赤と夜空の青のグラデーションをずっと眺めていたいからだ。アスファルトに残った熱がまとわりつくのが心地良いからだ。

そうやって自分自身に言い訳をするのは、はっきりさせたくない理由があるからだ。


「いらっしゃいませー」

ふらっと入った狭い居酒屋はほとんど満席だった。若いサラリーマンや学生たちの間を通り抜け、カウンターに通される。

生ビールを注文して、一息。今日は都内で最高気温36度を記録したと、テレビのニュースキャスターが伝えている。今年は雨が少なく、今週は猛暑日が続くでしょう。

明日の気温と降水確率を耳の表面で聞きながら、茶色い紙袋のセロテープをゆっくり剥がして「花言葉辞典」を取り出した。

向日葵のページを探す。36ページ。


「はい、生ビールお待たせ!」

Tもこうやって、あの子の顔を思い浮かべながら、一人で花言葉辞典を眺めたんだろう。それで、次に会ったら何を話そうとか、考えたりしているんだろうか。

それは幸せな時間なんだろうか、苦しい時間なんだろうか。


本をテーブルに置き、一口目をゴクンと喉に流し込む。


毎週金曜日の21時に待ち合わせて、ちょっとだけお酒を飲む。「今からあそこのコンビニで強盗するならどうやってやる?」とか、同じ店にいるカップルを見て「あの2人、付き合ってんのかな」「不倫じゃん?」とか、そんなくだらない話をする。

飲みすぎると時々Tは泣く。東京の人の泣き方だ、と私は思う。

誰にも話したことがない秘密を、Tにだけ、一度だけ打ち明けたことがある。

私たちは、たったそれだけだ。


天気予報が終わり、バラエティ番組のタイトルが映った。


今週もまた、金曜日に渋谷で待ち合わせて、道玄坂の安っぽいバラの香りのベッドで寝るんだろう。それはいつまで続くんだろう?


「わかるよそのうち」とTは言った。
わかんないよ。そんなの、わかってやるもんか。


ふと足元を見ると、誰かの落し物らしいピンクのタオルハンカチがぐしゃぐしゃに踏みつけられていた。後ろの席の若いサラリーマン3人組は、赤坂のキャバクラの話をしている。隣の席からはタバコの煙がとめどなく流れてくる。

私は一人だった。下北沢の街から、世界から、ここだけぽこっと浮き上がっていた。夏なんて大嫌いだ。


カウンターに置いたままの花言葉辞典に、ジョッキの水滴がポタリと落ちた。

今日はなんだか、ビールが苦い。


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「最初と最後の一文が決まった文」を、7人で書きました。書き始めは「向日葵の花言葉をはじめて調べた」、書き終わりは「ビールが苦い」です。
https://note.mu/ikeikeikkei/n/n9a50800cc95b

あしたもいい日になりますように!