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すべての縁は“タイミング”である

やっぱり、タイミングかなあ

結婚の決め手を尋ねたとき、90%の確率で返ってくるのがこれだ。

「いや、その“タイミング”をもう少し噛み砕いて教えてほしいんですけど」と思っても、当人にはタイミングとしか言いようがなかったりする。

たしかに、どちらか一方の思いだけではどうにもならないし、タイミングということばが適切なのかもしれない。けど、それって結婚に限ったことかなあ? と最近ふと考えた。


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昔の友だちと集まる機会が、最近めっきり減った。

同窓会にはまったく顔を出していない。なんとなく呼ばれる飲み会も、会話が妙に上すべりしたり、なにを話そうかと探り合ううちに時間が過ぎていったりで、だんだん行くのがおっくうになってしまった。

前はもっと、と思う。

前はもっと、ただ安いお酒を飲んでいるだけでよくて、朝まで公園にいるだけでもよくて、いつも同じ話をしていればよくて、それだけでけっこう分かりあった気になって……

と、ぐるぐる考えるうちに気づく。

これも結局、“タイミング”なのだ。

10歳のころ、Aちゃんと「親友だよ」と言い合えたのは、ただ私たちが10歳だったからだ。逆に、長い学校生活で少しも接点を持てなかったBちゃんは、お互いが引き合う時期がズレただけだ。20歳のころ、中身のない会話で朝まで笑って過ごせたのは、それが私たちの“タイミング”だったからだ。


結婚に限らず、どんな関係性であっても、一人で成り立つものはない。お互いが「友だちになりたい」と思わなければ友だちにはなれないし、「もっと近づきたい」と思わなければぐっと距離が縮まることもない。関係性がどんな形に収まるかは、そのときそれを構築する人たちのふるまいや気持ちに委ねられる。

すべての縁は“タイミング”なのだ。

人の心は移ろうものだから、すべての縁はそのとき限りのナマモノだ。その中には思いがけず長持ちするものも、すぐに腐ってしまうものもある。どちらにせよ、一度鮮度が落ちてしまうと、もう二度と元には戻らないものだよなあ、と思う。


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大人になって、新しい友だちもたくさんできた。

阿吽の呼吸で一緒に仕事ができる人もいるし、ただ一緒に飲むだけで楽しい人もいる。とくに文章を通じて出会った友だちとは、会う回数は少なくとも、お互いの深い部分がわかるような気がする。

だけど、今は月イチで飲みに行く関係でも、毎日のようにLINEのやりとりをしていたとしても、10年経ったら「そんな人もいたねえ」くらいになってしまう人もたくさんいるんだろう。

それは、さみしいことだろうか。

私はあんまりそうは思わない。

結局それは不可抗力だから、いま目の前にある一瞬の鮮度をめいいっぱい楽しめばいいし、楽しむしかないと思う。

そうしていれば、その瞬間はたしかに存在したものとしてキラキラ残り続けて、いつかなつかしく振り返れると知っているからだ。


あしたもいい日になりますように!