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「風立ちぬ」を見ながらサラリーマンの「生きづらさ」について考える

金曜ロードショーの「風立ちぬ」を見ながら、「生き方」とかについて考えてしまった。

ジブリ映画のコピーは良いものが多い。「生きねば」というキャッチコピーは今の自分にぐっさり刺さる。本当に義務感のようなもので生きている気がする。


ここからが本題だけど、「人に仕事をつける」のが日本の会社の"普通"なので、日本のホワイト・カラー(非工場労働者)のサービス残業はなくならないと思う。


欧米の会社は「仕事に人をつける」のが"普通"だ。

だから、自分の仕事が終わったらすぐに帰れる。その仕事の対価としてお金をもらう。仕事が終わったら職場にいる理由がない。だから「1秒でも早く帰って自分のことに時間を使おう」ということになる。非常にシンプルな話だ。

逆に、何か都合で仕事がなくなると、人は簡単に解雇される。

昔、TVで、ドイツの職業に関するアンケートで「コンピュータの導入は、人の仕事を奪うから反対!」という意見が多かったことを笑い話のように紹介しているのを見たことがある。しかし、欧米人の感覚では、仕事がなくなることは笑い話ではなく、本当に切実な話なんだろう。

「私の仕事じゃない」という仕事の断り方をする日本人は少数派だろう。自分の仕事でなくても、できる範囲で対応する人が日本では"できる人"だ。

「私の仕事じゃない」は冷たい言葉に聞こえるが、人の仕事をしてしまうと、その人の仕事を奪ってしまう可能性があることを配慮した言葉だと捉えることができる(単に労働意識が低いだけの可能性もあるけど)。

そんな配慮をするくらい「仕事に人をつける」という感覚が欧米人にとっての"普通"なのだ。


対して、日本の会社は「人に仕事つける」のが"普通"だ。

とりあえず新卒で一括採用してから後で仕事を割り振るなんてことができるのは、「人に仕事をつける」感覚が普通だからだ。

「上司より早く帰れない」「残業したくないけど、みんな残っているから帰りづらい」理由は、この「会社が人に仕事をつける」ことが原因である。

日本の会社は、自分の仕事がどこまでなのか、明確な区切りがないことが多い。そうなると当たり前だけど、自分の仕事が本当に終わったのかどうかの判断も明確にできないことになる。だから、仕事を割り振る上司が帰らない限り、なんか帰りづらいのだ。

残業前提で仕事を回すことが慣習になると、管理職は定時の時点でその日の全体の進捗が把握できないことになる。それは不安なので、管理職も定時ではなかなか帰れなくなる。

そんなわけで定時後の1~2時間は、管理職も平社員もずるずるとなんとなく帰りづらい雰囲気が漂うことになる。


これを解決するには、管理職が管理職としての仕事をきっちりこなすことが必要だ。

部下一人一人に対して、その日やるべき仕事をきっちり割り振る。部下は部下で、自分に割り振られた仕事に集中し、人の仕事には基本的に関わらないということを徹底するしかない。

まず、実践するのは不可能だろう。管理職がかなり優秀な人でないとダメだし、現場の中間管理職にものすごい責任がのしかかることになる。

そして一番の問題点は、それをうまくこなしたところで管理職も平社員も大して給料が上がらないことだ。


日本の会社(社会も)は「みんなでがんばろう」で動いている。だから、基本的に誰も責任をとらない。

何か問題が発生してもなんとなく「みんなで反省しよう」ということになる。責任は"みんな"の人数分で薄められるので、まともに反省なんてできないし、しない。なので同じような失敗が繰り返される。

「失敗しても責任がない」を裏返すと「がんばっても報われない」ということになる。がんばっても給料があがらないなら、だらだらするのが一番賢い処世術になる。「サボリーマン」は賢い生き方なのだ。

また「失敗しても責任をとらなくてもいいが、がんばっても報われない」ということは「がんばってもがんばらなくても雇用が継続される」ということにもなる。

そう考えると「みんなでがんばろう」も悪いことばかりではない。サラリーマンは「不満はあるけど、不安がない」職業なのだ。植木等のスーダラ節で「サラリーマンは気楽な稼業~♪」と歌っているのは非常に的を射た表現だと思う。


しかし、終身雇用が崩壊した現在の日本では、サラリーマンは「不満もあるし、不安もある」職業になりつつある。そもそも終身雇用制なんてものは、経済が右肩上がり立った時代の幻想でしかなかったのだ。

大企業でも先行きがわからないくらい、時代の変化が大きくなってきている。シャープや東芝が傾くなんて、予想できた人はほとんどいなかったのではないか?いまをときめくGoogleでさえ、10年後はインターネットの覇権を握っているかどうかわからない。

サラリーマンはもはや気楽な稼業ではないのだ。


流行りの「フリーランス」は「不満はないけど、不安がある」職業だ。

たとえ所得が低くても、自分のペースや生活スタイルで仕事を選ぶことができるわけだから、ストレスは低いはずだ。自分で仕事のすべてをコントロールできるので、「自分の仕事がどこまでかわからない」なんて事態は絶対に起きない。クライアントとは対等の立場なので、嫌なら嫌で交渉の余地がある。

能力があって「不安耐性」が高い人なら、今の時代、ただ生きていくお金を稼ぐためにサラリーマンを選ぶ理由はあまりないことになる。「脱社畜」がいいかどうかは、その人が不安にどれだけ耐性があるかによって変わってくるだろう。

能力があっても「不安耐性」が低い人は、企業の中でのし上がることを選んだ方がいいだろう。

しかし、どんなに綺麗な言葉で言い繕っても、組織で管理職になることは「加害者」になるということだ。

組織でのし上がって生きていくためには、誰かに叱責されないために、誰かを叱責するということが日常になる。課長は部長に怒られるし、部長は役員に怒られる。役員は社長に怒られるし、社長は株主に怒られる。

会社のため、お前の成長のためと美辞麗句を並べたとところで、結局、部下に対して「俺のために頑張れ」と言っていることには変わりはない。「性格が悪い奴のほうが出世する」という言葉は正しい。

性格が悪くない人は「自分のやっていることには、それだけの価値があるんだ!」と会社という「大いなるもの」に帰依するか、「これが俺の役割だ」と心を殺さないと会社の管理職を続けていくのは難しい。どちらかをうまくできないと心がいつかバラバラになってしまう。

それが難しいなら、やっぱり自分で事業を立ち上げて、「不安」の海に飛び込むしかない。ただ「経営者」は組織内の管理職よりも比較にならないくらい邪悪な存在になりうるのも確かだ。人を利用することしか考えていないような人種は、個人経営の会社の社長に多い。

親の会社なんて継ぎたくなくて、芸術家になったはずのジョージ・ルーカスが、いつの間にか「社長」になっていたように、自分がなりたくなかったものに、知らず知らずのうちになってしまうことはあり得ることなのだ。


どの道を選んでも、その道なりの辛さはある。

ただ「脱社畜」みたいなムーブメントがあおられるくらいには、いまの日本の会社生活を辛いと感じている人が多いってことだろう。

"割に合わない"と感じている人が多いんだろうな。求められる奉仕に対して、恩恵は少ないという。しかし、組織に属している限りは"安心"が得られる・・・。まるで、新興宗教みたいだぁ・・・(直喩)。


「働き方改革」で会社員の生活が変わればいいけど、まあ、期待できそうにないよな。

「お上から叱られないためにやる」という体質が、いまの日本の会社組織の生きづらさを作っているわけだから。それが変わらないとサラリーマンは生きづらさは変わらないだろう。

だからと言って、欧米のように「仕事に人をつける」方式が浸透するには、日本人の精神構造が変わっていかない限り難しい。少なく見積もってあと一世代、20~30年はかかるんじゃないだろうか。

まあ「仕事に人つける」方式の未来は、経営層以外、全員非正規雇用者という未来ですけどね・・・。AIの発達で以外とそんな時代が早くくるかもしれない。

AIに支配されることで大多数の人が幸せに生きていける社会になるなら、俺は全然構わないなあ。


生きていくのは、本当にただそれだけでしんどい。細々とでいいので、心穏やかに生活していきたいな。

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