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スタディーノート4−2 ロヒンギャ コミュニティを訪ねて。

凸凹道を自転車で進んだ先には大型トラック一台分より少し広い幅のコンクリートの道路が敷かれている。側にはバイクに座りながらタバコを吹かしている男や瀟洒な日傘を差しながら談笑している女性が見える。店はティーショップ、食事場所、薬屋、水瓶やプラスチック製の椅子などが売られている雑貨屋が立ち並んでいた。全員私の顔を凝視しており、大人子供問わず近づいてくるのであった。「キャモナソ(こんにちは 元気ですか)」と言ってみる。「バロ(元気だよ)」と笑いながら答えてきた。ロヒンギャ語で挨拶をしたおかげで彼らの警戒心が解けたのか、男性も女性も皆笑顔を向けてくれた。集まってくる人、一人一人に自己紹介をしていると一人の男性が英語で話しかけてくれた。どうやら村を案内してくれるそうでついていくことにした(彼の年齢や職業は伏せておく)。

村の名前は“That Kay Pyin village”である。そのコミュニティにいる大勢は界隈に家はなく、夕方から夜にかけて入り口とは反対側にあるIDPキャンプへ戻ると言う。これまでミャウー、バングラデシュの二カ国でロヒンギャ、イスラム教徒・ロヒンギャと近い環境で生活する経験があったが、イスラム教徒に共通するものは彼らの「もてなし」に驚かされることである。おそらくその根底にあるのはコーランの「旅人を愛せ」の項目なのだろうか。彼らの「もてなし」精神に対し受動的になってしまうことは如何なものか。日本人の?「お返し」スイッチが働く。ただ彼らがイスラム教徒でコーランの教えに準じていると簡単な結論に至り、当人の性分を蔑ろにしがちになることにも気をつけねばならない。人との巡り合わせが良いことに過ぎないのである。

 案内役を買って出てくれた彼はどこか目が憂いに満ちているようで、声は少しか細い。これは私が「難民・避難民」というフィルターを通して見ているゆえの第一印象なのだろうか。だからこそ彼の一面である彼の笑顔の歯が見える・目尻にシワができる瞬間に愁眉を開いてしまうのか。今回の滞在で1日目からアラカン人と多く関わることができたおかげで見えたこともある。彼らは本当に同じ町で生活を送っていたのだろうか。IDPキャンプは2012年の衝突以後、でき始めたものである。わずか約7年間でいかほどの変化があったのか。遠く昔から(15世紀から)ラカインの地に存在していたことを知るものもいるにもかかわらず、ロヒンギャはすでにバングラデシュからきた外国人の認識が一般化している。私はアラカン人が多く住む場所に再び戻らねばならないのである。

 難民キャンプ同様、コミュニティには日常風景はたくさんある。しかし、「日常」から垣間見える「厳しさ・不条理」に直面にした際にはロヒンギャに会うまで「難民」の意味さえ知らなかった私がこのドス黒い光景を表現することができるのか、という暗鬱たる感情に腕を掴まれるのである。ある親子に話を聞いた。その子は熱があるが、父親は「薬を買う金さえない」と言うのであった。難民キャンプで抱いた「日常」を重視していた私はどこか直視することを避けていたのではないか。

写真・コミュニティの薬屋の写真。一番多い症状は腹痛・下痢。病院にはマイコプラズマ感染症や腹水を患う方もいた。

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