対話主義

五・一五事件で亡くなった犬養毅首相は対話主義の人格者だったようだが、それなら犬養毅が対話主義者だったという伝説が残っていてもオカシクナイ筈だ。私には、犬養の「話せば分かる」の名セリフが一人歩きしていても詰らないと思うのですが、あなたのお考えだと如何なものでしょうか?

配下の軍人たちとの対話の場を総理大臣が設けることは不可能と思えない。その犬養毅が平素から実行している対話を命の危機に瀕したこの時点でも繰返そうとしたのは当然のことに思われる故に、犬養の言葉に僅かの訝(いぶか)しむべき理由など有得ないし、私には思いも寄らないのです。

それならどうしたのだろうか?平素から対話が出来ていて理解し合っている関係でありながら、「問答無用」のセリフを犬養の部下が主人に向かって放ったのはどうしたことだろうか?「問答無用」は言葉が通じない相手に向かって放つべき弾丸であれば「もはや手遅れだ!」という意味だろう。

76歳までの長期に亘って対話主義を貫いた犬養毅のそれまでの話し合いはなんだったのか?犯行に及んだ将校たちは犬養との過去の語り合いをどのように聴いていたのか?上意下達を対話とか話合いとは言わない。だからどんな対話をしてきたのか?私は知りたいが、あなたは如何でしょうか?

政治は公共(の務め)であれば意思の疎通は密に行われていなければならないと思うのです。これが公共に縁遠い場であれば私は左程うるさく追及しようと思わない。例えば電波は公共に強く係わるゆえにNTTに不正や疑惑があっては許されるべきでなく、海外企業でもツイッター等は監視したい。

私はプランター庭園を楽しんでいる。トマトやジャガイモ等を私は従順な羊と見做すゆえに少々の歪みは見て見ぬふりもするが、不正や疑惑を生むナメクジや団子虫たちは私に敵対する存在として即座にするしかない。(軍人にとって)犬養はトマトか?団子虫か?料理人か?共に食べる仲間か?

私は野菜とも意思の疎通を図るために苦労しているし、害虫たちとも協力し合える関係を模索しているし、どんな相手とも佳い関係に向かいたい。とは言え対話できない相手は救いようがない。こんな感じで、いろんな想いが錯綜する箱庭療法なのかも知れないなあ。(;´∀`)

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