善き友 - ハイジ -

nhk(100分de名著)「アルプスの少女ハイジ」に感じるままを述べたい。自分は未熟だが幼児とか子供ではないというスタンスがいと私は思っている。この私の感覚は世間に普通に受容れられている訳ではない。私の中で普通は普遍と同義語です。哲学は(私に)未熟を自覚させる。自覚なく己の未熟を感じる人はいて、感じない人もいる。そのことをハイジに感じた私。

未熟者の(私の)教養はどんなもの?フランクフルトへ連れてこられた無教養のハイジは教養を施される。教養のオイシイ所は?出世しやすいでしょ!? 笑 世間に高く評価される‥だから世間体がいい。箔(はく)がつくでしょ?金箔は生れが伴わないから無理でも、銀箔くらいは期待できる。長者窮子の仏教説話では宝玉に恐れをなす息子がいたけれど‥それはまた別の話。|д゚)

ハイジの作者ヨハンナ・シュピリは教養豊かに育てられたようです。ハイジのお祖父さんは教養豊かな家庭に育ったようです。お祖父さんを受容れなかった村人や牧師は教養的な態度だったでしょう?アルムの山小屋を知るまでのハイジは教養の基本を憶えさせられ、アルムでは無教養に過ごしたようだが、教養ってなんだろう?あなたは教養をどう自覚なさってますか?

フランクフルトでホームシックから夢遊病にまでなってしまったハイジをアルムの山小屋へ返しなさいという処方箋を医師は出したのですね。教養よりも大事なもの(宝物)が無教養なお祖父さんのところで得られるってことだ。今の日本には教養至上主義の人が多いのを感じる。折檻(せっかん)するのは何のため?折檻は教養がなせる業(わざ)に違いない。私はそう断言する。

折檻‥言い換えれば治罰だよ。例えば折檻して階段から突き落とした夫の言い訳‥「しまった、やりすぎた」って何なんだよ!? 折檻は害悪だって思ってなくて、だから治罰は善いことだと心に沁みこんでいる夫なんだ。警察沙汰・世間沙汰にならなければだとドコかで教わって心身に染みついている。だからそれが江戸時代や中世西洋なら嫁を殺してもOKになる。

ハイジのお祖父さんがアルムの山小屋に住んだ経緯(いきさつ)にしても村人や牧師による治罰・折檻に違いない。階段から落とす折檻でなくても、村から追払った罰‥治罰・折檻。今の日本の常識でも治罰はOKだ。そのOKの治罰が世間並みでなくて‥教養が少し不足した夫は世間並みの苛めで済ませることが出来なかった。これが「しまった、やりすぎた」の本質だろ⁉

熊も猪も居場所があれば里へ下りてこないのに、、それなのに私の箱庭にナメクジもダンゴムシも居場所がなくて、それで今は私と戦争状態なのです。生きるために私のテリトリーへ侵入してくる害虫たちを私は殺すことになる。それにしても殺すことに慣れたくない私。殺すことに少しずつ無自覚になっていて、しかもエスカレートしている私‥自分でもホント嫌になる。

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