中心者 - 主体者 -

アルムの山麓の村にある教会牧師について分ったふうにアレコレ述べていることを私自身が自覚しなければならない。無責任な姿勢はいけない‥私が主体者でありたいならば。ともあれ、ハイジの物語を直かに読んだことがない私としては松永美穂氏の翻訳・講義に寄ることになる。そもそも作者ヨハンナ・シュピリはこのことをどう捉えたか?この問題をどう解決しようとしたか?主体者は哲学することになる。シュピリは哲学することになる。

お祖父さんを物語に登場させるべき意味は何?ハイジをアルムへ遣わすべき意味は何?私の科学の眼で観たら「は意味のないことをしない」となる‥仏は時を知る。哲学者シュピリの感性はアルムの村に時を見たと私は捉える。遣わされたお祖父さんとハイジはお手本を示す。そのお手本に素直な村人たちは感銘を受ける。全ての村人たちが晴れやかに輝くお祖父さんを歓迎している姿を見て偏見に凝り固まった牧師も目覚める‥(ことわり)。

(このように観たときは)目覚めた民が一人立ち二人立ち三人立ち‥やがて総立ちして頑なな支配者をリードして平和な社会へと改革していく素敵なストーリーが見えてくるに違いない。その一人目をシュピリとみるも、ハイジとみるも、自分自身とみるのも、どれも誤りではない‥のだろうな。何もしないにも関わらず最後に幸せの輪に入れる者が登場するのも必然でしょう。その迷える子羊(放蕩息子)に仲間入りするのも悪くはないかもね。(笑)

物語の登場人物の誰が主人公になっても無理はないみたいです。仮に牧師が主人公ならあなたは何という題名になさいますか?善き友人 - ハイジ -で触れたように「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え」は求めずして自ら得たり(不具自得)と成っていて、その為に真面目に勤め上げる時が必要だった。その姿勢は村人に被るだろうか?主の代行者ぶって偉そうに叱りつける牧師に被るだろうか?いえいえ、現実の牧師は実直な方も多いと想います。

いやいや、畏るべし・女性の力を私は再認識しています。ま、やっと認知した所かも知れません‥。これも松永美穂氏のお陰さま。拝。

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