文献を比較する(追記)

(記)2019年7月14日
ここでのお題を「文献を比較する」としております。この意味を申せば‥是までに私は多くの方々から色いろ学んでまいりました。他者に学んでおられる方々は御存じでしょうけれど、私たちの一生は長くても高々百年程度しかありません。そのことで焦っておられる人のナンと多いことかと私には想われてならない。「何をそんなに焦ってるの?」とお尋ねするのは失礼ですし、それで此処で私の思いを少し述べておきたいと思います。

文献を読み漁るにしても、何かの研究で成果を出すにしても、あるいは誰かと議論するにしても、時間が足りないとお思いの方は大勢いらっしゃる。例えば国会議員の先生方の言い分でも「まだまだ議論が足りない」と仰る先生のナンと多いこと。「みんなが納得するまで議論しようぜ」と仰る野党の先生方のお気持ちは私でもよく分る。あなたもその気持はお分りになるでしょう?「私たちが納得するまで説明しろよ」とあなたも思うよね?

私にも同じ気持ちがありますから、あなたの気持ちは分る。例えば私はあなたにナニかを尋ねたい。それで「納得するまで説明してくれたら嬉しいな」と思う。だけどあなたの立場を思えば無理は言えないと思う。あなたも「無理を言うのは駄目だ」と思うでしょう?そりゃあ、当然です。俺が納得するまで説明しろと言うのは我がままだとあなたは思う筈。あなたにはあなたの都合がある。だから納得するまで説明する時間の余裕がない。

お前の都合なんかに構っとられん。俺の都合に合わせろってのは駄目ですよね。だから私たちは優先順位を決めなければならない。幾つもの議題があれば比較して優先度の高い順を決めなきゃ、、それが分らなければ幼児だよ。何ごとにおいても優先順位を決めなければ駄目ですよね。時間が余ってるのなら順番無視で時間無制限で質疑応答して好いかも知れないが、なにせ私たちが持っている時間は限られている。あなたもそれは分りますよね。

良き市民のあなたはお分りになるけれど、そうでない者は邪まなことを考えるからあなたも私も気をつけなきゃいけませんね。悪しき例として‥居座るセールスがいるよね。相手は忙しい‥それなら居座ったら帰ってもらいたくて買うことになる‥なあんて、昔、豊田商事が金塊の所有権の紙切れを数百万円で売りつけてまわった事件を憶えてらっしゃる方もいるでしょう?粘ったら根負けして言い成りになるとか、卑劣な考えをする人もいるんだよ。

時間切れを狙う手口も悪党たちの常套手段になっている。幼児がお腹を空かせているのを知りながら、ナンヤカンヤと口実をつけて引き延ばせば、幼児を放っておけないから悪党の言い成りになるしかない‥となれば恐ろしい。悪党は無視して追い出すか、話合いの場を設けてやるのを控えるべきかも知れません。私の人生は他人より長いとしても、皆に薦められた世界中の文献を読み漁るには時間が足りない。読み漁るだけで私の人生は終る。(^^;)

新約聖書は素晴らしい‥だから是非読んでみなさい‥何べん言われたことか。仏教経典は素晴らしい、だから是非お読みなさい‥これも何べん言われたか。それ等はホントに素晴らしいとしようよ。提婆達多は丸暗記したらしい。だから私は提婆達多に倣うべきだろうか?あなたは悪党に成り下がった提婆達多と同じことをしたいだろうか?まさか‥ね⁉ 新約を読み切って、仏典を読み切って、それがナンだって言うのだろう。私はそう思う。

文献に通じてなくても私の後ろには分り易い「無知の知」のソクラテスが付いている。いやいや、あなたというもっともっと素晴らしい先達が私には付いているんだよ。あなたは自覚していないとしても、あなたは私の学問のなんだよ。あなたの存在が私のを少しずつ少しずついてくれている。眼の前に居ないソクラテスより眼前のあなたのほうが私の大事な経典文献なんだ、だから私はあなたに感謝して余りにも当然です。聴いてます?

どの文献を優先すべきか?僅か百年ソコソコの人生なのに、私なら古い文献は古典学者に委ねる。あるいは仏典に魅せられた人にお任せする。折角のインターネットなのに、眼前のを無視するなどと、そんな勿体ないこと、私はしない。これは私の思想ですから、あなたはあなたの思想のままに過ごされて構わないんだ。新約には無知な私だけど、アガベーだの放蕩息子だの分らなくても私は少しも不自由しないし、にも不自由していない。

大事な大事なあなただから、眼前のあなたへ宛てて私はこの文も書いているのです。もちろん、それは私の気持ちで、形式で、私の眼(まなこ)を開く意味のほうが結果的に大きい。有り難うございますね。(´・ω・`)

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