真っ当に崇めよ

真っ当と全うを強いて使い分けるなら‥私の場合は強いて使い分けるようにしておりますが、真っ当な私は善意を出し切ろうと努めることになる。全うな私であれば嬉しいけれど、欠陥多き生身の人間なれば十全(じゅうぜん)という訳にはいくまい。何かのでこんなことを考えているところ‥。

全うに崇むには力及ばずの私だが、私の精一杯の想いで真っ当に崇めようと努める日々を送っている。とは「貴いなかでも最も高い山のような存在」の謂(い)い。百千万億とある多くの貴い存在をどれでも貴しと思って崇めるなら、その人は真っ当に崇めていないのです‥私はそう思う。

例えば100人の貴人がいて、貴人だから誰でも同じという訳にはいかない。貴人にもそれぞれの専門があるとしたら如何?例えば語学の貴人に医学を学んで済まそうとするなら、それはトンデモナイ心得違い。そのドチラも貴人には違いないが、崇めている積もりでいても少しも崇めていない。

真っ当に崇める努力を続けるとき、少しずつ少しずつ全うな私へ近づいていくだろう。横着(おうちゃく)してこの努力が抜けるとき、傍目(はため)には崇めているようでも私は崇めかたを誤まったと言うに止まらず、私自身に祟っている私と言うしかないが、似て非なること‥お分かりでしょうか?

私たちはめているようでっていることが実に多い。そんなことでどうして幸せになれるか?幸せどころか己を地獄のどん底へと突き落とす所業(しょぎょう)になっていないか? (仮に)奈ザレを崇めている積もりでいても祟って地獄へ一直線の現実なら‥余りに哀れでならない。違うかな?

全うに崇めよとは思わない。真っ当に崇める努力はしようよ。そうしなければ折角の善意を持っていても、善意善業に繋がらず、善意が悪業となり悪果となる。それでは本末顛倒(ほんまつてんとう)です。子の幸せを祈っている親が子を不幸へ追いやってる事例も耳にしてるでしょう?

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