善き友 - 誤解 -

現実を言えば、目的と目標が曖昧になっているケースが多いようです。フランケンシュタインの過ちが当にそうだと言える。人でなくても生き物はその日・その場・その状況に合わせて目標を定める。TPOは無限に有って、すなわち目標は無限にある。そんなものが普遍な訳はない。

一生の目標を人生の目的と位置づける人はいるだろうし、一年一年の目標を一年の目的と位置づける人もいるだろう。個々人ごとに独自の目的を持っても好いが、それで他者と仲良くなりたいと願うならそれは支離滅裂というしかない。論理的でない目標・目的は妄想でしかないと私は断定する。

世界平和を願うなら、他者との共存共栄を願うなら、妄想でなくて論理に則らなければなるまい。私の食い扶持を略奪するナメクジとは私の箱庭で共存できる筈がない。私(人間)との共存を図る他者とは同じ目標を持つことが考えられる。人類すべてが同じ目標を持つときは意見の一致を見るだろう。

ま、普遍の目的とまでは言えなくても、すべての人に通じる同一目標人類の目的とするのが現実的だろう。(私流儀では)目的の主格は人類で、目標の主格は個人個人になる。これは飽くまで便宜上の分け方です。この主格が好い加減なところで誤解は生じる。それはハイジの例にも明らかです。

教養があるとされる人々は言葉合わせにかまけていて心を合わせる余裕を持てないようです。ハイジは祖父ともペーターともペーターの祖母とも‥アルムの山に暮らす無教養な人々と互いの健康・幸せの想いを共有している。他方で教養ある人々は口裏合わせの強要に忙しい日々のようです。

教養ある人々の誤解はどのようにして始まったのか、それはまた別の機会に考えてまいりたい。

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