善き友 - 大善 -

ここまでのハイジを振返ってみます。お祖父さんは若いころに身に着けた常識(教育)を世間で試して散々な目にあって負け組として田舎へ戻った。私のこの観察は間違っていると証明できるお人はいらっしゃるまい。負け組に冷たい社会は私たちの周りにも観られるのでないだろうか。

教会・牧師は負け組のお祖父さんに説教し反省を促した。なにを反省すべきかが明らかなら好いが、あなたは真っ当に答えられますか?負け組を上から目線で叱りつけておけば牧師が暮らす村で面目は保たれるでしょう。指導目的は?罵れば足りるといったものではないと私は思うのです。

牧師も人間ですから過ちを犯す。過ちの事実を私は怒ろうとも叱ろうとも思わない。過ち学ぶなかで人の成長はあるのです。罰したら過ちは無かったことになるだろうか?怒り叱りつければそれで免罪符を得られるか?牧師に頭を下げたら罪は許されるか?そんなこと、ナンて馬鹿馬鹿しい。

ナザレのイエスに遵う牧師が代わりに罪を被ればいいか?そんな非道を私は望まない。他者の罪を身代わりが引き受けるなんて出来ません。牧師は謙虚になって人間と一緒に歩けばそれが全て‥だろうな。ジャンバルジャンに己の罪を学んだミリエル司教に倣うなら、他者を責めるなんて出来まい。

中心者(牧師)の間違った思想に迷い・随って信者は必ず過(あやま)つ。仮にあなたの目標は何ですか?己の過ちを誤魔化すことでないのは当然ですが、あなたの目標だから好みに合わせられたら良いですね。サッカ-選手もいい、エリート営業マンもいい、教育者もいい。音楽家もいい。私はそう思う。

他者の不幸を喜ぶあなたでなければいいのでなかろうか?他者の幸せを妬み嫉むあなたでなければいいのでなかろうか?だったらキーワードは他者でしょうね。己の不幸は己の成長の糧(かて)にできる。だからといって他者を不幸へ向かわせてはなるまい。だから他者の幸せを願い祈ることになる。

他者の幸せ‥これを人としての目的としたらとっても善いと思う。すなわち、大善(だいぜん)。この大善を人間の目的・手段とする社会がいいな。私はそう思う。

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