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「お金」という名の「薬」について

久々に銀行にお金が振り込まれた。
私の口座はローンの引き落としのための入金をのぞいては、口座にお金が振り込まれることなどめったにない。収入が存在しないので、口座だけでなく財布の中身も常にチャリ銭が僅かに入っているだけだ。

入金当日の午前中、近所のスーパーマーケット内に存在する銀行で、今日のお昼ご飯や晩御飯、日用品の買い物をする奥様方の列に並んで口座からお金を引き落とすのを待っていた。

銀行に立ち寄ること自体も久々である。待機列に並びながら、なんとなく通帳をペラペラとめくってみた。最後に「給料」として振り込みがあったのは、28年の冬に一万円程度、労働や何かの報酬として口座にお金が振り込まれるのはおよそ2年ぶりだった。

仕事をこなして1ヵ月分の給料として支払われる額に比べれば、大した金額ではないが、それでもお金をおろした瞬間はちゃんと人間をやっていたころの感覚を思い出した。

毎月の給料日を心待ちにし、口座からお金を引き出して、買い物に出かけるときなどは心を躍らせていたものだ。昔から消費癖が強く、給料日を迎えるころには私の頭の中は、欲しいものリストであふれかえっていた。

大人になってから多少抑制できるようになったものの、高校生の時のアルバイト代など給料日の次の休みにはもうカラになっていたのを覚えている。好きなアーティストの新譜、お気に入りのブランドの服、新作の漫画、楽器、日用品、雑貨、とにかく欲しいものは沢山あったし、お金を浪費することはとても楽しかった。

しかし、大人になりあまり自由にお金を使えなくなると、少しずつ浪費癖を抑えて貯金に回し始めることを覚えたが…程なく、私は社会からリタイアしてしまった。私の預金通帳には、自らの入金、ローン会社からの引き落とし、それ以外の文字が印字されることは殆どなくなった。

今回、引き出したお金も使い道はもう決まっている。
私と社会の最後のつながりであるインターネット、その生活環境を改善するために新しいパソコンを購入する予定だ。適当に動画鑑賞ができればそれで満足だったため4万円の安いノートパソコンを今まで使用していたのだが、ある程度クリエイティブな趣味にも対応させたくなったため、デスクトップパソコンを購入することにした。

おそらく仕事による、定期的な収入があっても、ここまでの金額の買い物はめったになかったので、それなりに楽しみである。パソコン本体分の金額しか用意できなかったので、周辺機器もろもろをそろえて、自分の趣味を全開に楽しめるようになるには、おそらくあと1年以上時間はかかってしまうだろうが、焦ってもお金はやってこないので気長にやっていきたいと思う。

口座から振り込まれた金額全てを引き落とし、残高は40円。久しぶりに財布にそれなりの金額が入った。はやり少しテンションが上がる。大人になってもそれなりの収入を得られる人間だったなら、適当に遊び歩いたり、ナンパなどをするタイプの人間だったのではないかなと思ってしまうほどだ。

私は長い事ひきこもり生活を続けているのだが、とあるひきこもりの方が著書で『こずかいは薬』だと言っていたのを思い出した。某、精神科医もひきこもりの社会参加の第一歩は「働くこと」ではなく「消費すること」だという。

長くひきこもり生活が続いてしまった人間にとって、いきなり労働という形での社会参加は余りにもストレスであり、リスクも高すぎるが、こういった時におこずかいでも、口座に残った僅かなお金でもいい、手元にいくらか残っていれば、買い物をすることができる。気の合う友達でもいれば一緒にご飯を食べるぐらいはできるだろう。例え細い繋がりであったとしても、お金が手元にあればその人は社会に参加することができるのだ。

お金の入った財布がポケットに入っていると私は、人間をやっていたころの感覚を思い出すことができる。「労働」だけではなく「消費」という形で、私は確かに社会とつながっていたのだ。

一度、賃労働から離れてしまうと「職場」というつながりからも離れてしまう。それなりに貯金でもない限り、共同体や友達とのつながりからも徐々に離れていってしまうことは少なくないだろう。

お金とは社会と個人を繋ぎ止めてくれるチケットのような役割も果たしているのかも知れない。お金というもののあり方や、価値、存在について真剣に考えたことのなど今までなかったし、経済の仕組みなども理解できていない。もっと上手な例えや、言い回し、適格な表現があるのだろうが、学のない私にはこれが精いっぱいの表現だ。

収入をほとんど得られない状況の中で、再びお金を手にした私が体験した、不思議な高揚感や懐かしさなど、思いの丈を拙いながらも今回のnoteに記させてもらった次第である。

おいしいご飯が食べたいです。