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競りゲームの盛衰、そして復権(The rise and fall (and rise again) of auctions)

本記事は、Anthony Faber氏が2021年12月10日に投稿した「The rise and fall (and rise again) of auctions」の翻訳である。

Anthony氏の記事はいくつか翻訳している。その中で何度も競りゲームが遊ばれなくなった旨の言及がされていた。本記事は、その競りゲームが遊ばれなくなったという話題をテーマの1つとしたものである。また、同時に、競り要素はあらゆるゲームにあるということを説明している。競りゲームについて論じた文章は多いが、短くまとまっていることから訳す価値があると考えた。

Anthony氏の記事を何回か読んだことがある人は、同じようなことを言ってると思うかもしれない。その点はご容赦いただきたい。

なお、敢えて言うまでもないが、序盤の文章は旧約聖書の創世記をなぞっている。個人的に所有している新共同訳の聖書を参照しようとしたが、実家に置いてきたようで見つからなかった。申し訳ないが、聖書の記述に忠実ではない部分がある。ご了承いただければ幸いである(なお、私はクリスチャンではない。)

ヘッダーの画像は、Silhouette Illust様のものを使用させていただいた。また、記事の翻訳はAnthony氏の包括的な承諾を得ている。英語話者であれば、ぜひAnthony氏のブログにコメントをしてほしい。

元記事は以下のリンク先を参照されたい。

初めに、Kniziaはボードゲームを創造された。

ボードゲームは形もメカニズムもない混沌としたものであって、闇がゲームストアの窓の面に映っていた。Kniziaの霊(the spirit)が、安っぽい折りたたみテーブルの間を動いていた。

Kniziaは言われた。
「競りよあれ。」
こうして、競りがあった。

Kniziaは競りを見て、良しとされた。Kniziaは、競りと当時流行っていたクソみてぇな(crappy)その他のメカニズムを分けた。

Kniziaは競りを昼と呼び、他のしょうもない(lameass)メカニズムを夜と呼ばれた。「モダンアート」があり、「メディチ」があった。第一の日である。

こんな風に続けようとしたんだけど、気分を害する人もいるだろうし、安っぽい演出だなって思う人を退屈にしてしまう。ただ、思い起こして欲しいのは、このサイト(※BGG)には、さっき述べたことが、現代のボードゲームの初期を描写したとても正確な説明と考える人も多くいるってことだ。要するに、このフォーラムに石を投げれば、90年代後半にボードゲームを始めて、神の代わりにReiner Kniziaの写真を壁に貼ってる50歳そこらの白人男性に当たるだろうってことさ。

クレジット: W. Eric Martin

このように、私は、Kniziaのファンを冷やかすのが好きだ。彼らの多くは、インタラクションが強く、ルール量が少ない昔ながらの(old school)ユーロゲームこそが、プレイするに値するユーロゲームだということを熱心に信奉している(invested)ように思える。私は、このような価値観をほとんど信じてはない。けど、スキルが要求されるゲームを強く信じているし、競りゲームほどプレイヤーに多くのスキルを求めてくるものはない。競りは、戦争みたいなものだ。戦争や競りで下手を打ったら、結果は悲惨で明白なものとなる。メカニズムの本質を引き出す本当に素晴らしい何かがある。冗談は抜きにして、競りに関していうと、Reiner Kniziaは、基本的に、父、子、聖霊が一緒くたになったような存在(※三位一体)であることは否定できない。彼は、90年代に、「モダンアート」、「メディチ」、「ラー」、それに「ハイ・ソサエティ」を発表した。その後、間もなく発表された「アメン・ラー」も含めて、これらは、当時のホビーボードゲームの中でも最も人気の高い作品の1つとされた。

ここでは、近頃のゲームの中で競り要素がどのような場面で見られるかを探究していきたいと思う。Kniziaのゲームの何が素晴らしいかについては深掘りはしない。その点は別稿に譲りたい。ただし、遊んだことがある人にとって、競り要素が含まれるゲームであることが明らかである場合には、主張を補強するために取り上げる。競り要素が含まれるゲームとは、要するに、ゲーム全体を見て競りが中心的なメカニズムである場合(「アメン・ラー」)やゲーム全体がまるっきり競り要素しかない場合(「モダンアート」、「ハイソサエティ」)をいう。Kniziaは、純粋な競りゲームに関して相次いでヒット作を叩き出している。

今日まで話を進めると、90年代の10倍以上のゲームが毎年発売されているというのに、競り要素があるゲームを見つけることすら難しい(あとで、最近の例を取り上げる。)。じゃあ、何が起こったというのか。なぜ、競りゲームはその人気を失ってしまったのだろうか。

私にとって少し手垢がついた(trite)ような話になるが、1つの理屈としては、デザイナーがあまりにも多くを競り要素に頼ってしまったために、みんな競りに熱意をなくしてしまったというものだ。バランスを取るための要素が欠けていれば、この理屈のとおり、デザイナーは競り要素を導入するだけで、プレイヤー自身が勝手にバランスを取ってくれる。

完全に的外れというわけでもないだろうが、私にとってより腑に落ちる答えは、2つの観点から競り要素を好ましいと思わなくなってしまったというものだ。1つの観点は、今日のプレイヤーは、競りゲームにはない要素である、寛容さのあるユーロゲームをより好むようになったということだ。先ほど、戦争に例えたが、それは今日のユーロゲーマーが持っている、互いに許し合って生きていくというメンタル(the live and let live ethos)とはマッチしない。

これに関連して、競りゲームの第一印象は悪くなりがちだ。オークションゲームを初めて遊ぶ時、物の適正な(inherent)価値がわからず、入札が当てずっぽう(shots in the dark)になることが多い。序盤で何回も高い値付けをしてしまったら、残りのゲームで無一文で傍観することになりかねない。第一印象が悪いと、現代ゲームでは命取りとなる。1990年代は、おそらく、気にいるかどうかを見極めるために、何回かゲームを遊んでいたと思う。今日の世界では、選択肢が過剰に存在するので、1回やって終わりとなる。ゲームが失敗したら(a game bombs)、2度目のチャンスなんてほとんどない。

クレジット: W. Eric Martin

Gen Con 2018において、Red Raven Gamesのボランティアとして働いた際に、自分の目でこの現象が起こるのを見てしまった。彼らの新作「クロンダイク・ラッシュ」は、Ryan Laukatの言葉を借りれば、少しばかりのルート構築要素を持ったシンプルで昔ながらの競りゲームということで、Kniziaと彼の競り要素のある全作品(※原文では、oevreだが、oeuvreの誤り)に対する意識的なオマージュだった。私は、そこでの試遊でゲームのインストをしたのだが、多くの人々がピンと来ていなかった(many people just didn't get it)。残念なことに、現代のプレイヤーは、容赦のなさ、先を見通しにくさ(opaque)といったそのゲームの要素を受け入れてくれなかった(bounced off)。序盤で無駄遣いしたプレイヤーが、ゲームに絡めなくなってしまい、ついにはとても苛立ってしまったのを見てしまった。私は、このゲームがLaukatの最も出来の悪いゲームだと確信している。

クレジット: W. Eric Martin

とにかく、どんな理由を掲げようと、純粋な競りゲームは、Kniziaの黄金期の後に衰退していった。「電力会社」(2004年)、「Goa」(2004年)、最近では「Keyflower」(2012年)のように、競り要素が大きな役割を担ったいくつかのヒット作があるが、それ以降は、ヒット作がほとんど見当たらない(slim pickings)。「ノイシュヴァンシュタイン城」や「アイル・オブ・スカイ」は、黄金期以降の競り要素のあるヒット作といっても過言ではないが、両方とも、入札というよりか価格設定ともいえる、完全な競り要素ではないメカニズムを採用している。ただ、このようなゲームが成功したにもかかわらず、この傾向が人気を博すことはほとんどなかった。

もっとも、純粋な競りゲームや競り要素を主体としたゲームが珍しくなった一方で、もう少し深く見てみると、競り要素は何かしらの形でいたるところに存在している。大抵の場合、ゲーム全体というよりも、特定の一要素にすぎない。けれども、いまだにそういったところに実装されていて、プレイヤーにゲームのリソースを適切に査定させようとしている。

これから、私が好きな競り要素について、ゲームの中で果たしている役割別に分類して取り上げようと思う。現代ゲームの中には、必ずしも他のメカニズムではうまく機能しない面があると思っていて、競り要素が、そのような面においてプレイヤーの心を引き付けて公正なものとする、非常に重要で面白い役割を果たすことができると考えている。ということで、その分類について話していこう。

手番順に関する競り

クレジット: AI

手番順は、現代ボードゲームデザインにおいて、正しく理解するのに最も難しい要素(trickiest)の1つだ。ラウンドの最初か最後の手番となることが、勝つために非常に重要となり得る。この重要な優位性が、ランダムだったり恣意的だったりする形で割り当てられてしまうのであれば、あまり気持ち良いものではない。手番順に関して競り要素があることは、手番順が本当に重要となるゲームにおいて、素晴らしい工夫(twist)になり得る。

これは別に新しいことではない。1995年に発表された「El Grande」は、私が見てきた中で最も優れた手番順に関する競りが実装されていた。この順繰りする(once around)競りの素晴らしさは、各ラウンドにおいて最初に様々な特別アクションを選択するのが決定的になることが多いところ、手番順に関して安く入札することで、プレイヤーの手元に多くの騎士が与えられるといった対価(compenate for)が設けられているところにある。もし、常に手番ごとに高値で入札していたら、騎士が足りなくなってしまう。重要ではない局面では手番を諦めて、重要な局面では手番を取りに行くということを知る必要がある。

クレジット: W. Eric Martin

私のお気に入りの手番順の競りは、「Shakespeare」に実装されていて、初手番となるには、ラウンドで行えるアクションの数を表す駒を握り競り(blind bid)を行うことになる。最低入札額となった(※最もアクション駒を入札しなかった)プレイヤーが勝利し(※初手番となり)、各プレイヤーは入札した駒の分だけアクションを行うことになる。入札に勝利した者は、貴重な勝利点も得ることができる。このシステムにより、プレイヤーは厳しい判断を迫られることになる。つまり、欲しいキャラクターを余裕をもって(※早めに)雇う必要があるだけでなく、そのラウンドでたくさんのアクションを行う必要もある。ほかの全てのラウンドでは、タブローの中の1人を除いた全キャラクターを休ませないといけないので、相手のポジションを鋭く分析することで、相手がどのくらい多くのアクションを行おうとしているのかについてひらめくことが多い。このシステムは、過小評価されてしまっているユーロゲームの典型的な例だ。

似たような素晴らしいシステムは、Dungeon Petzにもある。プレイヤーは、アクションのグループにあるワーカーと金の数に基づき、ワーカーと金を組み合わせて、それぞれのアクションのスピードを入札する。高い入札をして少ないアクションを作るか、低い入札をして多くのアクションを作ることができる。このシステムでは、各入札が別々に機能してランク付けされるので、例えば、1ラウンドで1位、7位、8位、10位になることがある。

ワーカープレイスメントに見せかけた競り

クレジット: @a_traveler

「Lancaster」は、異なる強さを持ったワーカーを使って、ワーカーの配置場所に対して入札をする。より高い値をつけたら、ワーカーが個人ボードに戻ってきて、そのボード上のどこかほかの場所に置かれる。一味違うところは、そのラウンドのワーカーの強さを一時的に上げるために資源を消費することができる点にある。しかし、高い値をつけてしまうと、ワーカーが戻ってはくるものの、費やした資源を失ってしまう。

このようなゲーム全てが数年前のものではない。「ファーナス」は、「Lancaster」のように、ワーカープレイスメントと競りを掛け合わせたようなゲームで、カードを競り取るために異なる強さのワーカーを置くことになる。「ファーナス」は、高い値をつけたとしても、ワーカーが戻ってくることはないが、その代わり、ワーカーの強さに応じた一定の対価を得ることができるというひねりが効いている。

競りによる戦闘

クレジット: W. Eric Martin

多人数用の対戦ゲームは、競り的な要素を取り入れる方向で進化していった。多くの例でみられるとおり(「ケメト」、「ブラッドレイジ」、「サイズ」、「Ankh」)、ダイスを振って処理を行うことから、隠匿した手札を公開すること(hidden reveal cardplay)に取って代わり、修正要素のあるカードを選んで、総合的な戦闘力(a total battle strength)を決定することになる。ボード上の兵力の強さのみたいな要素も、戦闘力に影響を与えることから、純粋な競りとまでいえないことが多い。ただ、カードを場に出して効果を発動させることは戦闘をうまくこなすために資源を入札していくことと、多少なりとも同じような感じを受けることがある。

「ライジングサン」では、純粋な意味での競り要素がある。ゲーム中、敵の兵士を捕らえる、負けてポイントを得る、傭兵を使う権利を得るなど、様々な戦闘の目標として非公開競り(blind bid)が採用されている。これに加えて、競りには、入札に使われたお金が入札できなかった者や戦闘の敗者に流れるような、逆転可能となるメカニズム(catchup mechanism)も混ぜ合わされている(blend in)。

運試しの対価・補償としての競り
革新的なカードゲームである「TEN」も、敗者への対価として競り要素を採用している。この場合、プレイヤーはカードを集める中で、カードを引くのを止めて公開したカードの数値分だけ要求するか、カードの価値が一定の数値を超えてバーストするかとなる。しかし、バーストしても、定期的に現れる貴重なワイルドカードの競りで使うことができる通貨を受け取る。通貨は、公開されている得点カードの代わりに要求すれば、マネーカードとして得ることもできる。

プレイヤー能力に関する競り

クレジット: Juma Al-JouJou

一番議論がある競りの形式を最後に残しておいた。これは、「クランズ・オブ・カレドニア」や「テラミスティカ 」、「ガイア・プロジェクト」のようなゲームの上級バリアントルールとして実装されている。競りからゲームが始まり、固有能力や強力な非対称能力(※氏族・部族)の競りのために勝利点を使う。

新規プレイヤーであるほどこのシステムが好きじゃないのは理解できる。どのくらいの額で入札すべきか見当がつかないからね。しかし、こういった競りは仕事に失敗したデザイナーがプレイヤー自身にバランスを取らせてるだけだという、よく表明されるお気持ち(oft expressed sentiment)には、全く賛同できない。実際に、強力な固有能力と多様なセットアップを組み合わせたら、能力のバランスなんて取れるわけがない。難しいなんて言ってない、文字通り不可能だって言っているんだ。なぜかっていうと、能力の中には、あるセットアップ下では抜群に優秀なんだけど、ほかのセットアップ下では非常に貧弱となることだってあるからだ。全ての配置においてバランスが取れるなんてあり得ない。

どんなセットアップでどの能力がうまく機能するかということを推測する能力は存在していて、欲しいものを手に入れるために誘導することで、競りの戦略面、心理戦のどちらにおいても楽しいものとなる。時として、あまりインセンティブがないため普段はドラフトしないような能力を、競り要素のせいで遊ぶように迫られることがある。いつも思うのは、こういった競りが私に強い主体性を与えてくれるということだ。能力のせいで負けたと思ったことはない。初期セットアップが悪くても、(※自分でそのセットアップ下で不利な能力を選んだ以上)それは自分が引き起こしたことなんだ。

クレジット: W. Eric Martin

プレイヤーの中には、競りで勝利点を入札するのが気に入らないって人もいる。20勝利点も低い状態(in the hole)で開始するのが嫌なんだとさ。開始時の能力に関する特別な競りを行うに当たり、独創的な通貨を採用したゲームとして、「ロレンツォ・イル・マニーフィコ」の拡張である「the Houses of Renaissance」がある。固有能力の入札に勝利点を使うのではなく、プレイヤーは開始時の資源を入札していく。最も高く入札すれば、ほとんど何もない状態からゲームを開始することを受け入れたことになる。価値を見積もることがより難しくなる、悪魔的な方法だ。10勝利点は10勝利点だけど、開始時に持っている資源の半分ってどの程度の価値なのだろうか。

今日の純粋な競りゲーム

クレジット: W. Eric Martin

この記事の最後に、お気に入りの純粋な競りゲームのことを話さずにはいられない。近年の純粋な競りゲームでたった1つだけ人気になったゲームといえる「QE」だ。Kniziaの「ハイソサエティ」のルールを採用して、ゲーム中に最もお金を使ったプレイヤーが自動的に負けとなる。このルールに、プレイヤーが望むだけのお金を費やすことができるという、イカれたルールを組み合わせてる。少し狂気じみた賢い方法のおかげで、大抵の場合、悲惨な初回プレイ(a first game disaster)となってしまう点を意外にも回避している。序盤にたっぷりとお金を使っても、資源があり余っていて、高値で入札できるって具合だ!ほかのプレイヤーは、ゲームに勝ちたいのであれば、少なくとも何個かの競りで勝つ必要があるので、より高い値をつけなければならなくなる。やる気が削がれる代わりに、初回プレイヤーは、その可能性に驚くことになる。

最後に
ほかの人たちがどんな競りゲームを楽しんでるのか聞いてみたい。また、どんな場面で競り要素を採用してほしくて、どんな場面で採用してほしくないだろうか。まだ、90年代の古典的な競りゲームを遊んでるのか、それとも、ほかに楽しんでいる現代の競りゲームがあるのか(私が遊んでないゲームで、思いつくのは、「Raccoon Tycoon」がある。)。こういったことを下のコメント欄で教えてほしい。またいつものとおり、ここまで読んでくれてありがとう。

もし,あまりの文章量に目がかすんでしまったら,ポッドキャスト「Two Wood for Wheat」の最新回(※2021年12月14日時点)で聞くこともできる。そこでは、「ファーナス」という最近で最も人気を博したゲームのレビューもしている。

以上

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