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連載青春小説『Buffering-errors in the youth』(2/7)

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第二章 記憶

 スミレとぼくは小さい頃から近所で、母親どうし知り合いだった。幼稚園も同じ。よく一緒に通園した。あるとき、ぼくが幼稚園の前の道から、春の訪れを告げるぺしゃんこの蛙の死体――春になると蛙の死体を見かけることが多いような気がしない? 冬眠から覚めてすぐの蛙は、きっとまだ寝ぼけていて車に轢かれやすいからなんじゃないかと仮説を立てているのだけど、だからぺしゃんこの蛙を見ると、こんなことはぼくだけかもしれないけど、ああ春だなって思っちゃうんだよね――を教室に拾ってくると、教室は大騒ぎ。先生が血相をかえてやってきて、蛙をつまんでいるぼくごと外に抱え出そうとしているのを見て、スミレは腹を抱えて爆笑していた。
 スミレの家で遊んでいると、夜になってもスミレのお母さんがなかなか仕事から帰ってこないことがあった。スミレに、怖いからまだ帰らないで、と言われて、帰るに帰れなくて困った(こんなこと女の子に言われたのは、今のところ、これが最初で最後だ)。
 小学校も同じだった。一年生のとき、ぼくは風邪をこじらせて、肺から空気を絞り出すような咳を繰り返し、しまいに入院するはめになった。肺炎だった。スミレからお見舞いにピーターラビットの絵本をもらい、リアルな蛙の立ち姿の絵を見て(ぺしゃんこの蛙の怨念ってわけじゃないだろうけど)、ちょっとしたショックをうけた。
 そのショックのせい、ではもちろんなく、たぶん二週間の入院生活がなんらかの変化をぼくにもたらしたのだろう、その頃くらいから積極的にスミレに話しかけなくなっていた。
 その変化がなんだったのかを説明するのは難しい。しかしある一側面として、このぐらいの年齢の子どもにはありがちなことだった、と言うこともできて、よく覚えているのは、入院中看護師などの大人たちからやたらと、えらいね、と言われていたことだ。朝の検温を自分で行なったとき、ご飯を残さず食べたとき、その他もろもろの些細な事を成し遂げるたびに、「アキオくん、えらいね」というわけだ。ぼくはそれにおどらされて、なんて言うとあまりにひねくれた言い方になるのだけれど、あらゆることを進んで自分で行うようにしてそのセリフを求めていた節がある。隣のベッドには一つ学年が上の男の子がいて、母親も付き添いで一緒に寝泊まりしているのに対して、ぼくは毎日家族の見舞いはあっても面会時間を過ぎれば独りだったから、なおさら、アキオくんはまだ一年生なのに独りでえらいね、というわけだ。子どもなりに悪い気はしないよね。もちろん当時は、そこにどんな心理的な力学が働いているかなんて考えもしなかった。
 退院後、もはや誰にだったかは忘れてしまったけれど、顔つきが変わった、と言われたことは印象的に覚えていて、単純に少し大人びたということかもしれないけど、ぼくが無意識のうちに学んだのは、人と人との間には隔たりがあって、近づいたり、遠ざかったりするということだった。物心がつく、という表現があるけど、それはきっとこういうことがわかるようになるということではないだろうか。
 そして、ぼくとスミレの場合は、どちらかということもなく、徐々に疎遠になった。すれちがってもあいさつもしないときがあった。
けれど、四年生までは毎年ヴァレンタインのチョコをくれたし、ぼくもちゃんとお返しをしていた。五年生からは、チョコをくれなくなったんだけど、それはスミレが私立中学進学を目指していて、その時期は受験勉強の真っただ中だったからだと思う。何も言われなかったので、そのときはがっかりとなぜか安堵が混ざった不思議な気持ちだった
 それでスミレは中高一貫の私立に進学し、公立の中学、高校へ進学したぼくは会うことがなくなった。
 そのあとのスミレに関しては、母さんの話や友だちの風の噂などでなんとなく知った。志望大学がどこだったのかは知らないのだけど、志望校に落ちて浪人することになったと聞いたときは驚いた。すべり止めなしで、志望校一本だったからとか、高三のときには付き合っていた彼氏との間にもめ事があってスミレの母さんが悩んでいるみたいだなんてことを母さんから一時耳にしたときもあったけれど、成績は優秀と聞いていたし、ぼくの知っているスミレは何事もうまいことこなしていたように見えたからだ。それに、スミレが何かにつまずくなんてところがイメージしにくかったのだ。でもこういうのを姉ちゃんふうに言えば、男子の身勝手って言うんだろうけれども、それはともかく、この予備校で小学校以来六年ぶりの再会をしたのだった。

 確か五月の初め頃だったと思う。志望校判定模試があった日だ。
 はからずもペン回しの練習と運だめしに費やされた最後の科目――それはなぜって、最後の古文漢文が苦手だからで、だってそうじゃないか、眠い目こすって勉強している受験生に、春眠暁を覚えず、ってそりゃないよね――が終わり、うんざりしながらエレベーターを待っていた。さらにうんざりさせられたのは、「あの問題何て答えた?」とか「正解は何番?」などと答え合わせをする、受験生としてのデリカシーを少しも共有しようとしない無神経な連中に囲まれたことで、階段で降りようかと考え始めた頃、エレベーターの扉が開いた。
 結構な人数が乗っていた。その中の一人に見覚えがある顔があった。まったく想定していない顔だった。ぼくは固まってしまい、エレベーターを見送ってしまった。
 ぼくは変な気分で階段を降りていった。あの顔がスミレだったのはすぐにわかったが、そのことがぼくに何を示しているのかはわからなかったのだ。なぜここに? そういえばスミレと同じ高校卒の連中が結構いたような気がするから不思議ではない。今までたまたま遭遇しなかっただけなのだろうか。あの一瞬でむこうはぼくに気付いただろうか……気付いていなければいい……気付いているわけないよな……
 階段を降りながら、いろいろな状況や推定を考え合わせては、とてつもない天変地異に遭遇してしまったかのような胸騒ぎを鎮めようした。最終的に胸のつかえが払拭されるまでにはいかなかったけれど、一階につく頃にはさっきの自分の狼狽ぶりが愚かに見えるほどには持ち直していた。すると今度は、なんであのとき声をかけなかったのか、エレベーターに乗らなかったのか、と後悔し始めていた。
 二階を過ぎ、階段の先に、ガラス張りのエントランスホールにあふれる西日のあたたかい光が見えてきたとき、そこにさっきの顔が見えた。スミレが階段の下で、明らかに階段の上の方を、つまりこちらの方を見上げている。
 瞬時に引き返そうと思ったけれど、それはまわりの人の流れから不自然で逆に目立つし、そもそもむこうはぼくに気付いていないかもしれない、いや気付いているわけないんだ。引き返すなんて自意識過剰じゃないか。そう思いながらも自然とぼくは鞄の中を探るふりをしてうつむいていた。様子うかがいで鞄から目線を上げる。うまい具合に目が合ってしまった。しかもむこうは微笑んだ。きっと何かの間違いだ。もうぼくはあの頃の少年ではない、ずいぶん背格好も変わっている。異なる中学に進んでからは数回近所で見かけた程度だ。そんな簡単に、しかもこの距離でぼくだってわかるはずはない。スミレに向かって微笑みを返している奴がいないかとまわりを見たのだけど、そんなやつは見当たらない。あの微笑みのあて先はぼくである疑いが濃くなってくる。確かめねばならない。思い切ってぎこちない笑顔を返してみた。するとむこうは大きな笑顔になって、しかも手まで振った。
 観念したというとおかしいけれど、うれし恥ずかし、ぼくも手を挙げていた。やっぱりこれは天変地異なんだ、と思い直した。
 こういうときの男子の振る舞いについて姉ちゃんは何か言っていたような気がするけどまったく思い出せないし、そもそもそんなこと聞いたことなかったような気もしてくるし、とにかく顔が日焼けし過ぎたときみたいに皮膚がつっぱってうまく動かないし、火照っている。
「アキオ、くん? でしょ! アキオくんもこの予備校だったの? 久しぶり! 元気してた? 覚えてる? スミレ」
 スミレは自分の顔を指差した。
 ぼくは「え、ああ、うん」と言ってうなずいていた、たぶん必要以上に。
「さっきエレベーターのところにいたでしょ? やっぱりそうだよね。あたし乗ってたんだよ。扉が開いた瞬間、アキオくんだ! って思ったんだけど、そっちは無反応でしょ。あたしの勘違い? とも思ったんだけど確かめてみようと思って、ここらへんにいれば絶対降りてくるだろうから待ち伏せしてたの。そしたらやっぱり。すごいね。ほんとびっくり」
「こっちこそ、びっくりだよ」
 声がうわずっていた。
「お母さんがちょっと前にアキオのお母さんに会ったんだって。それでアキオも浪人だっていう話は聞いてたんだあ。なんだあ予備校同じだったんだ。さっきエレベーターにあたし乗ってたの気が付かなかった?」
「え? 全然」
「えーうっそお。ひどーい。まあいいけど。アキオくん、かなり背伸びたんじゃない」
「そりゃ、まあ何年も経ってるしね」
「そうじゃなくて」とスミレは苦笑いした。「昔はあたしよりちっちゃかったのにさ」
「高校入ってから伸びて」
「ふーん。生意気ね」とスミレが言うのを聞いたぼくは、「えええ」と間抜けなリアクションをしてしまったのだけど、それを見たスミレは笑い、ぼくもつられて笑った。
 このときには、ぼくはだいぶ落ち着いていたのだけど、一方で別の妙な当惑にとらわれてもいた。
 確かに小学生のときまでスミレの方が身長が高かった。だから、いつもぼくがスミレを見上げていたのに、こうやってぼくがスミレを見下ろしている光景に違和感があった。六年あまりの年月が経ったとはいえ、記憶の中のスミレは小学生のまま。予期せぬ再会で、年月を飛び越え、昔の世界と現在がショートカットで結びつくから、シーソーのように逆転した見え方が現実味を欠いているように思えた。ぼくはあべこべの世界、不思議の国にいて、スミレは本当にあのスミレなのか?
 そうだ、スミレはこんなにおしゃべりだっただろうか? このとき正直言って少し面食らったのは、ぼくの知っているスミレは、人見知りをする方だったし、無口ではなかったけれど、こんなにもテンション高く、おしゃべりする方ではなかった気がするからだ(これも男子の身勝手なイメージだろうか?)。
 でもこのときを振り返ってみると、スミレも緊張していたのだと思う。緊張がスミレをおしゃべりにさせたのかもしれない。
 そうこうと困惑を隠しているうち、「アキオはもう帰り?」とあべこべの世界から声が聞こえてきた。スミレは後ろを振り返り、友だちと思わしき女の子二人に軽く手を挙げ「もう行くよ」と合図を送って、こっちに向き直った。
「うん」
「そっか。あたしは友だちと図書館によって勉強していくから。それじゃあ。あ、ねえ、今日は無理だけど、今度一緒に帰ろうよ。久しぶりに。時間割が合う日にさ」
「ああ。じゃあ」
「じゃあ今度連絡するよ」と言うなり、スミレは後ろの友だちの方に駆けていき帰っていった。
 ぼくは気持ちが高ぶりうれしくなった。と同時に自分の振る舞いが情けなく思えてきて、恥ずかしくもなった。でもどっちかというと、やっぱりうれしくって、家に帰ると、胸の高鳴りとニヤけ顔を家族にばれないように、浪人生特有の陰気な仮面で必死に抑えつけた。
 今思い出しても、あの日のぼくの振る舞いは情けなくて、恥ずかしくなる。

 トイレにチャイムが響く。
 いつの間にか随分長居をしていたようだ。トイレで考えるようなことじゃない。この手の話はいったん思い出すと、そう、味のなくなったガムみたいに始末が悪い。ほら「吸殻・紙屑・ガム等を便器に捨てないで下さい」って書いてある。水に流せもしない。まったくケンジ叔父さんの言う通りだ。トイレで円周率と過去のことは考えてはいけない。スッキリしないからね。

 帰りの電車は帰宅ラッシュ前で比較的空いていた。灯りの少ない郊外の町並みに進入していく電車は照明も冷房も強く、徐々に浸透してくる熱帯夜を過度に警戒しているかのようだった。急速に汗がひいていく。
 今になって妙に気にかかるのは、スミレの「今度一緒に帰ろうよ。久しぶりに」という言葉だ。というのもぼくが記憶している限り、二人だけで一緒に帰ったのは一度もない。幼稚園のときは一緒に帰ったけれど、もう一人女の子がいたし、必ずどちらかの母親の付き添いがあった。小学生になると、下校はそれぞれ友だちと一緒だった。だから「久しぶりに」という言葉が気にかかった。
 でも、それは突然の再会のノリから出てしまっただけだろう、と思えばなんてこともないとも思えた。考え過ぎか……。車窓に自嘲の薄笑いが反射した。日が暮れ、車窓は鏡のようになっていた。
 最寄の駅で降りる。改札口の先の夜に向かって歩き出した。
 だいぶ家が近づいてきた住宅街の路地。道の中央寄りの、車の通行の妨げになりそうな中途半端な位置に配置された一本の電柱が目にとまる。その電柱が疑問解決の補助線となった。
 あれは、小学三年生か四年生の頃だ。雪が降り、姉ちゃんのおさがりのセーターを着せられ恥ずかしかったのをよく覚えているから、冬だったのは間違いない。
 遠足だか社会科見学のことで、そのときクラスの委員長だったスミレと先生を中心に、ぼくを含め何人かが放課後残って話し合いをした。議題が何だったか全く覚えていないのだけど、結局意見はまとまらず、遅くなったので解散になった。ぼくとスミレは近所で家路が途中まで同じだったから、どちらが誘うでもなく一緒に帰ることになった。
 冬の早い夕暮れに、住宅街を通る家路にはぼくら以外には誰もいなかった。たぶん、スミレの意見にみんなが否定的だったことで話し合いはまとまらず、そのことでスミレは落ち込んでいた。その頃には気軽に話すような仲ではなったから、きっと二人ともすごい緊張していたはずなんだけど、その話し合いでぼくはスミレを擁護するようなことを何も言えなかったことを後悔していたから、なんとか励まそうと全然関係のないくだらないことをたくさんしゃべったり、それから、そう確か、当時クラスで流行っていた「メリーさんの羊」の替え歌を唄ったりしたように思う。でもスミレは作り笑いはするものの、落ち込んだ表情のままだった。話も尽きかけ困ってきたとき、前方に電柱が見えた。ぼくは何気なく電柱の方へと進行方向を変え、後ろ向きに歩きながら、しゃべり続けた。そして電柱に気付いていないふりをしているぼくは、計算通りに、電柱に後ろ向きにぶつかって、大げさにこけてみせた。スミレは「大丈夫?」と心配そうに言うや否や、声を出して笑った。それを見てうれしくなったぼくはバカみたいな照れ笑いを続けた。その後、スミレは微笑みながらぼくのセーターの汚れを何度も手で払ってくれた。
 そのときの電柱がこれだったのを思い出した。おそらく二人だけで帰ったのは、これきりだ。
 ぼくはじっと立ち止まって電柱に沿って目線を上げた。夏のどんよりとした夜空があった。幾本もの電線が蜘蛛の巣のようになって、夜空を捕獲している。網目から漏れる夜空の断片。それは、枝葉で濾過された木漏れ日が澄んで見えるように、あのときの転んで見上げた寒い冬の冴えた夜空を思わせた。胸が静かにしめつけられ、感傷的になっていた。
 あの頃ぼくはスミレのことが好きだったんだ。今さらになって気付いた。逆に、スミレはどう思っていたのだろう? 考えてもみなかった。


第三章へ続く

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