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連載小説『誕生日が待ち遠しい!』[3-5]

# 1-2はこちら

* * * * * * *

# 3

 ホームルーム終了のチャイムが夏休みのはじまりを告げた。子どもたちは気もそぞろにあいさつを済ますと、ランドセルや手提げかばんをパンパンにふくらませて、教室を出ていく。
 階段をおりるリツ子の横を黒いランドセルが追い抜いていく。つつーっとすべるようにおどり場まで落ち、ランドセルのフタがパカンと開いた。ノートやふでばこ、体操着に通知表、ついさっきまで机とロッカーの中にあったあらゆるものがおどり場に飛び出した。
 何か大変なことが起こったと感じたリツ子は戸惑いながらも、それらを一つ一つ拾いあげた。そのほとんどに「金田ケンタ」と書いてあった。階段の上から声がする。
「うわっー。安田なにしてんだよ」
「カネケンが自分でやったんじゃんか。お前が先に手をはなしたのが悪い」
「なに言ってんの。じゃんけんで負けたんだからちゃんと持ってよ」
「そんなルール知らん」
「安田が決めたんじゃん。自分が負けたからってさあ。ずるいよ」
「だから持とうとしたじゃねえか。なのにカネケンがすぐ手をはなすからよ。じゃんけんに勝ったぐらいで大喜びしやがって。なあタケ。見てたろ?」
「ああ。確かに。カネケンが先に手をはなしたのが落下の原因だ。しかし、最後に安田がけらなければ、あんな勢いよく落ちなかっただろう。うん」
 竹本は真面目くさった顔でそう言うと、最後に手をパンとたたいた。
「竹本。ふざけてないで片づけるの手伝ってくれよ」
 金田が急いで階段を駆けおりてきた。
「ぎゃはは。タケの富岡先生のものまねは最高」
 安田は階段の上から高みの見物で笑っている。
「沢野さん、ありがとう」
 金田はリツ子から拾った物を受け取ると、しゃがんで自分でも残りの物を拾いはじめた。
 そこに竹本がおりてきて、
「あっ!」と叫んだ。
「それゲームじゃん。いいのかよ。カネケン。学校に持ってきちゃいけないんだぜ」
「よし、富岡にチクれ、タケ」
 安田は階段の上から指示を出した。
「了解」
 と竹本はわざとらしくかしこまって言うと、金田のランドセルを飛び越して階段をおりていく。
「ちがうよ。これは……。くそっ。待て。竹本」
 金田はあわてて散らかった物すべてを、ランドセルに乱雑につめこんだ。
「おしゃべりのバツだ。ハハハ」
 安田はゆっくり階段をおりながら高笑いをした。
 リツ子はつい笑ってしまった。金田はそれを見て少しむっとした表情になった。リツ子はとっさに小さく頭を下げた。
 金田はなにか言いたげな表情をしつつも、あわててランドセルを背負い直し、
「竹本。マジで待てって」
 と言って、竹本を追って階段を駆けおりた。ランドセルが楽器みたいにガッチャガッチャ鳴った。一度立ち止まって振り返り、「沢野さん。ありがとう」と言い残して、下の階へと見えなくなった。
 リツ子が下の階のほうの様子をなんとなく気にしていると、「どりゃ」と安田が飛びおりてきた。
 目の前に安田の真顔があった。
「大丈夫。チクらないよ。冗談だから、あれ」
「え?」
「あ、いや、沢野が怖い顔してるからさ。あとで富岡に、安田くんと竹本くんが金田くんをいじめてましたあ、とか告げ口するんじゃないかと思って」
「そんなことしない。それに怖い顔なんてしてない」
「そうかあ? おれのことにらんでただろ?」
「にらんでないよ。……生まれつきそういう目なの」
 リツ子はうつむき加減で、声をとんがらした。
「なら、悪かった」
 安田はほほ笑み、リツ子の横を通り過ぎ、階段を一段抜かしでおりていく。そして次のおどり場までおりると、うわばきをキュッと鳴らして振り返った。
「あ、そうだ。なあ沢野。おまえ泳げるだろ?」
「え。うん。少しは」
 リツ子は下にいる安田に向かって答えた。
「今日このあと昼飯食ったら、カネケンとタケと三人でプールに行くんだけど、沢野も来ないか?」
「プール? あたしも?」
「そう、区民プール。自転車ですぐだぜ。体育のとき見たけど、沢野、泳ぐの速いよな。おれが見たところ、おれの次に速い。勝負しよう。じゃあ、二時な」
「んんーん」
 困った顔をするリツ子。
「なんだよ。用事か?」
「え? あ、うん。そうそう。図書館に本を返しに行かないといけないの」
「ふん、図書館か。まったく。猫もしゃくしも先生も親も……」
「なによそれ」
「沢野! 本を読むとな……」
「なに?」
「本を読みすぎると……」
「……」
「ばかになる」
「はあ? なにそれ」
「とういうわけで二時な。遅れんなよ」
 安田はそう言うと、また一段抜かしで階段をおりていった。
「ちょっと、待ってよ。あたし行かないからね。勝手に決めないでよ。ほんとに行かないから」
 リツ子は手すりに身をのりだし、下をのぞきながら叫んだ。
 下から返事が返ってくる。
「アツはナツいぜ」
 リツ子は「ばっかじゃない……」とつぶやいて、含み笑いをした。
 そして校舎が静まりかえった瞬間、奇声が聞こえてきた。
「わあ!」
 金田と竹本の声だ。
「うわああ」
 今度は安田の声。
「イエーイ。どっきり成功。やったぜカネケン」
「すげえーびびったじゃねえかよ」
「安田が遅いから、二人で待ちぶせしてたんだ。なあ竹本。えへへ」
「むかついたあ」
「ちがうよ。カネケンがおどかそうって言ったんだ」
「うそつくなよ。竹本が最初に言ったんだろ。うわあ、逃げろ」
 三人の奇声と足音が校舎にこだました。

# 4

 下校する子どもたちの姿が川のように流れ、いくつものわかれ道のたびに手を振り合ってはまばらになっていく。その姿の一つ一つに帰るべき家が用意してあるように、陽射しもすべてに惜しみなくふり注いでいる。
 しかも、明日から待ちに待った夏休み。
 だからといって、みんなにこにこ喜びでいっぱいなんてことはない。
 たとえば、マサミの顔を見ればわかる。申し訳ない気持ちでいっぱいなのだ。
「リッちゃん。ごめんね」
「なにが?」
「水やりの当番……」
「ああ。いいの、いいの。気にしないで。それに暑そうだから水やりは気持ちよさそうじゃん」
「ほんと? ごめんね」
「別にマサミはあやまる必要ない。夏期講習があるんでしょ」
「そうなんだけど。……リッちゃん、にわとりとか怖くないの?」
「怖くないよ。うん。それに前の学校ではあたしも生き物係だったんだ」
「へえ。そうなんだ。すごいね」
「えー、なにがすごいの。マサミだって生き物係でしょ」
「じゃんけんで負けたから。そうじゃなければ絶対にやりたくなかったよ。だって、飼育小屋くさいでしょ」
 とマサミは眉間にしわを寄せ言って、
「それにリッちゃんは難しい言葉も知ってるしさ。すごいよ」
 と続けた。
「大げさ、大げさ。あたしからすれば、塾行って、毎日毎日勉強してるマサミのほうがよっぽどすごい」
「そうかな。みんなしてるよ」
「だってこんな暑いのに毎日塾に行くんでしょ。うへえ。やんなる」
 リツ子は思い切り顔をしかめた。
「あはは。毎日ってわけじゃないよ。リッちゃんっておもしろいね」
 マサミはほほ笑んだ。
「どこがあ?」
 とリツ子はおどけて言った。帰り道の静かな住宅街に二人の笑い声がひびいた。

 リツ子は「ううう。あっつい」とうめいては、手で顔をあおいだ。
「でもさあ。ナオちゃんって、いじわるだよね」
 マサミがとうとつに言った。
「ん? んん。なんで?」
 リツ子はあおぐのをやめて、その代わりにTシャツの胸の部分をつまんでひっぱり、ふくらませては、Tシャツをふいごのようにパタパタさせた。
「だってリッちゃんに押しつけてさ。あれわざとだね。リッちゃんにいじわるしてんだよ」
「んー。そう……まあね。でも確かにあたしひまだし。別にいいよ。気にしてない」
「そうなんだ……。わたしも手伝うから。毎回は無理だけど。行けるとき連絡するからさあ、一緒に行こう。小屋には入れないけど、水やりはわたしにまかして」
「ん、うん。ありがとう……」
「実は、わたしも前にナオちゃんにいじわるされたことがあるの……。気をつけようね」
「そうなんだ。うん。わかった……」
 リツ子は気の抜けた返事をした。足もとを見ながら歩いた。くつが地面からはなれる瞬間、くつ底の影が見えるような気がした。
「にしても。暑いー。限界。わたし暑いの苦手。リッちゃんは?」
 マサミは空を見上げて言った。
「あたしもー。あー、帰ったら、冷たいシャワー浴びよう」
 リツ子はTシャツの襟回りを広げて、中に風を通そうとした。マサミもまねして同じようにした。
「水浴び、いいねえ。わたしもしよう。それでクーラーガンガンでアイス食べる」
 風が強く吹いた。うまい具合にマサミの首もとからシャツの中に入った風が、マサミを風船みたいにふくらませた。
 陽射しは強すぎて、いろんなものがくっきり見えすぎる。青すぎる空は、魚が泳いでいそう。揺れる樹々は、怪獣のよう。地面のアスファルトは熱すぎて、くつ底が溶けてくっついてしまいそう。騒がしすぎるセミの鳴き声は、文字になってしまいそう。
 なんだか急にいろんなことが心配だ。

# 5

「ねえ、リッちゃん、知ってる?」
「ん。知らない」
「まだ言ってないじゃん!」
 マサミはほおをふくらました。
「あはは」
「んもお。もう教えてあげない」
「ごめん。冗談冗談。なになに?」
 リツ子はマサミの顔を下からのぞくような仕草をした。
「ほんとに聞きたい?」
「うん。うん」
「ひとに言っちゃだめだよ」
「もちろん」
「じつはね。ここを右に曲がって」
 急にマサミは立ち止まって右の路地を指差した。
「ほら、あの電柱のところの白いカベの家を左に曲がるとすぐに、クリーム色のカベの新しい家があるんだけど。だれんちだと思う?」
「だれ?」
「知りたい? ナイショだよ」
「わかってる。ナイショ。ナイショ」
 リツ子は小さく肩をすくめた。
「リッちゃんは友だちだから特別に教えてあげる。なんと。三上くんち」
 マサミは得意げに言った。
「ふううん」
「え? ふううんって……。反応それだけ? ていうか、そういえばリッちゃん、三上くんのこと知らないんだっけ? となりのクラスの。うちのクラスのじゃないよ。うちのクラスはミカブー。ミカブーもミカミだけど神様のほうの、三神。今言ってるのは、上下の上のほうの、かっこいい三上ノボルくん」
「ふふ。神様じゃないほうね。知ってる知ってる」
「なにがおかしいの?」
「なんでもない」
「変なの。まあいいや。やっぱりリッちゃんも知ってるか。三上くん、かっこいいもんね。背も高いし、足も速いし、有名人。三上くんファン、結構いるんだよね」
「あたしが三上くんのことを知ってるのは、別にかっこいいからとかじゃなくて」
「またあ。いいのいいの。かくさなくって。ナイショにしてあげる。友だちだもん」
「ちょっとお。ほんとにそんなんじゃない。三上くんとあたしは転校してきた時期が同じだったから、最初のときよく学校で会ったの。いろんな手続きするとき、たいてい一緒だったから。だから知ってるの」
「ふーん。そうなんだ。ということは、もしかして二人は……」
 マサミはのけぞって芝居がかった驚き方をした。
「なによお」
「付き合ってたりして」
「ない!」
 リツ子はきっぱり言った。
「なわけないよね。冗談冗談。え、マジで怒っちゃった? ほんと冗談だってえ。それにもし付き合ってたら困っちゃう」
「好きとか嫌いとかじゃないし。それに友だちでもないし」
「ああ、ごめんごめん。でも、ほんとに好きじゃないの?」
「じゃない」
「ふーん。それならいいけど。わたしは好き。秘密ね。……それはそうと、あー、もしかしてリッちゃん、三上くんとお話したことあるの?」
「まあーちょっと」
「きゃあ、ずるい。わたしはまだ、あいさつくらいしかできないのに」
「ずるい、って言われても……」
「ふうん。リッちゃんって……意外とおまめさんなのね」
「なによ。ちょっとしゃべっただけじゃん。それに、それを言うなら、おませ、だよ」
 しかし、マサミはよそ見をしていて、聞こえていないようだった。
「さあ、行くよ」
 マサミは突然真剣な顔になって声を押し殺して言うと、道のはじっこをうすい氷の上にいるみたいにそろりと歩き出した。
 リツ子はわけもわからずにとりあえずついていった。道のはしは塀で日陰になっていて涼しい。ランドセルをとったら背中がすーっとして気持ちいいだろうな、と思った。
「ねえ。こっちこっち」
 マサミはリツ子のそでをつまんでひっぱる。
「ねえ、なにすんの?」
 リツ子もなぜだか小声になった。
「行こうよ」
「どこに」
「三上くんち」
「えええ」
「せっかくここまで来たんだからさ」
「せっかく、の意味がわかんない。ねえ。あたしたちかなりあやしいよ」
 リツ子はきょろきょろまわりを見た。だれもいない静かな住宅街。
「大丈夫。家の前まで行って、見るだけ」
「なんのためよお」
「なんのためって。もちろん恋のため」
 ぶひゃはあ、とリツ子は吹き出し、あわてて両手で口をおさえた。
「ちょっと大声出さないで。聞こえちゃうでしょ」
「しょうがないじゃない。マサミのギャグがおかしいんだもん」
 リツ子はまた小声に戻った。
「ギャグじゃないよ」
 マサミはリツ子の前を歩き、背を向けたまま言った。
「ギャグじゃないの? マジ?」
「ちょ、シッ。あそこあそこ。わかる? クリーム色のカベの家」
「ああ、あれ。わかる」
「どお? かっこいいでしょ?」
「え? なにが?」
「三上くんちに決まってるでしょ」
「家は普通だよ」
「ちょっとちがうでしょ。そうね。いかにも三上くん! ていう雰囲気?」
 マサミは興奮気味に言った。
「はい? あのおー、まわりの家とたいして変わらないよ。なんならうちと大差ない。同じ二階建てだし。形も似てる。カベの色はちがうけど……。マサミさんってとってもおもしろい方なのね」
 リツ子は笑いがこみあげてくるのを必死にこらえた。
 二人は塀のそばに身をひそめた。探偵とかスパイみたいだ。リツ子は自分が少しずつそわそわしてきているのを感じていた。
 三上の家の玄関の扉がカチャッと音を立てて開いた。
「うそお」
 とマサミは思わず声に出してしまい、リツ子はとっさにマサミの口をおさえてシッと言った。
 玄関から出てきたのは、三上くんだ。
「どおしよお、リッちゃん」
「話しかけてきなよ。ほら。早くしないと、行っちゃうよ」
「無理無理無理。なに話せばいいの?」
「なんでもいいじゃん。思い切って、告白しちゃえば。チャンスだよ」
「えー。うそお。まだ早いよ。それに今いったら待ちぶせしてたみたいじゃん」
 マサミの顔は真っ赤だ。
「みたい、じゃなくて待ちぶせそのものでしょ……。とにかく告白に時期尚早なんてことはない。千載一遇のチャンス。ほら」
 リツ子はマサミのランドセルを軽く押した。
 前につんのめったマサミは、踏み止まって体勢を戻すと、必死の形相でリツ子をにらんだ。
「冗談はやめて」
「あ。ごめん……」
 リツ子は苦笑いをして、軽く頭を下げた。
 その間に三上は家を出て、二人とは逆の方向に歩き出していた。
「お出かけだね。さて、あたしたちも帰ろうか。ね、マサミ」
「どこいくのかな」
 マサミはまだ三上の背をうらめしそうに見つめている。
「デートかなんかじゃない。さあ帰ろ帰ろ」
「ちょっとお」
 マサミはリツ子をにらんだ。そして一呼吸して言った。
「よし尾行しよう。確かめる」
 マサミはそろりそろりと歩き出した。
「えー。うそでしょ? デートのわけないじゃん。冗談だよ。えーっと、お使いかな。いや図書館かも。もしかしてプールじゃないかな……」
 しかしマサミは聞く耳を持たず尾行に集中していた。
「はあ。変なこと言わなきゃよかった」とリツ子はため息をついて、マサミのあとを追いかけた。
 なかばふてくされながらもリツ子は尾行につきあった。だんだん尾行のスリルとサスペンスにわくわくしてきてもいたからだった。
 幸い街路に人けはなかった。立ち並ぶ家々もからっぽなのではないかと思えるほど静かだった。人間が消えてしまったみたいだ。唯一の人影は、道のずっと先の三上の姿。陽炎にゆれる不確かな影。見失うものか。セミの鳴き声だけがありありと響く……町はセミ星人に侵略されたのだ……迷いこんだ女の子……セミ星人たちの大合唱……「出ていけ、われらの町から出ていけ」……三上くん、助けてくださらないの……ああでも気をつけて、さっきからマサミゼミがあなたをねらっているの……さあ早く逃げて……あなたのお屋敷の場所もばれてるの……だから、そう、遠くへ逃げて……
 お屋敷の場所もばれてる? 不意にリツ子は疑問がわいてきた。
「ねえ。マサミ。忙しいところ悪いけど、ちょっと聞いていい。急に気になって。なんで三上くんち知ってるの? 一緒に帰ったことでもあるの?」
「あるわけないでしょ。調べたの。正確に言うと、調べるのに付き合わされたの、ナオちゃんに」
「どういうこと?」
「そのまんま。ナオちゃんも三上くんのこと好きなの。あ、これナイショだからね。怒られちゃう。でね、ナオちゃんが三上くんちの場所知りたいって言いだして。手紙を渡したいとかで。あとミーちゃんも三上くんファンだから、三人でどうしようって考えたんだけど、だれも直接聞く勇気なくて。それでナオちゃんが学校帰りに家までつけてみようって言うから。それでわかったの」
「尾行したの?」
「そう。ひとりじゃいやだからって、わたしも付き合わされた。いくらなんでもつけるのはどうかとわたしは思ったんだけど」
「……そうね。いくらなんでも尾行なんてね、あたしもどうかと思う……」
 リツ子はあきれ返って、大きく息をはいた。じゃあこれはなんなのさ。疲労感がおそってきて、急にランドセルが重くなったような気がした。
「ストップ」
 マサミがリツ子の腕をつかんだ。
「見つかっちゃう。ほらそこにいるんだから。ぼーっとしないで」
 リツ子はマサミが視線を送る方向を見た。信号待ちをしている三上がいた。
 いつのまにか大きな通りに出ていた。セミ王国はすっかり自動車に滅ぼされていた。
「どこ行くのかしら」
 マサミは力のない声で言った。マサミも疲れてきていた。
「どこって、ここまで来たら、ハマキュウデパートでしょ。あの先なんだから。やっぱ買い物よ。よかったね、マサミ」
「それがよくないの」
「なんで?」
「こうなったら、告白しちゃおうかなあなんてさっきから考えてるの」
「え、だってさっき……。もう機が熟しちゃったわけ」
「え、なに? よくわかんないけど、リッちゃんが大丈夫って言うならいけるかもって思って」
「大丈夫なんて言った覚えないけど……」
「こんなチャンスめったにないでしょ。それに明日から夏休みだし」
「夏休みがどう関係するのかわからないけど、そう思ったんなら、行きなよ。あたしここで待ってるから」
「ええ、やっぱ無理。ふられたらどうすんの。リッちゃんも来て」
「あたし関係ないもん」
「冷たいのね……。やっぱりやめる」
 もうめんどくさいなあ、とリツ子は言いかけてのみこんだ。
「じゃあ行くよ。でもあたしなんにもできないからね」
「きっかけ。まずリッちゃんが話しかけて、きっかけをつくるの」
「ほんとに? んん、わかった。そのかわり絶対告白してよ」
「いやあん。どうしよう」
 マサミはおしりを小さく振って体をうねうねさせた。
「まずはメアドの交換だけでもいいんでしょ?」
「いい、いい」
 マサミは目を輝かして何度もうなずく。
「じゃあ、いける」
「ほんと?」
「わかんないけど」
「なにそれ。というかリッちゃん、ひとりで行ってメアドだけ聞いてきて」
「なに言ってんの。ダメもとダメもと。やってみなきゃわかんないって。来年の夏はちがう中学校になっちゃうんでしょ」
「そうよね……ダメもとか」
「そうそう。虎穴に入らずんば虎子を得ずよ」
「え、なにそれ? オケツ二……ルンバ……コショウ?」
 ぎゃはあ、リツ子は体をくの字に曲げて笑った。
「コ、ケ、ツ、ニ、イ、ラ、ズ、ン、バ、コ、ジ、ヲ、エ、ズ!」
「なにそれ。おまじない?」
「え……まあ、おまじないみたいなもん。恋のおまじない。連続で三回早口で言うの。ちゃんと言えれば……。あ、三上くん、向こう側に渡っちゃってる。マサミ、急いで。信号赤に変わっちゃう」
 リツ子はマサミの右腕をつかんで駆け出した。マサミはひっぱるリツ子の手に身をまかせ、おまじないを必死に唱える。
 ……自動車は魔法にかかったみたいに道をあける……青色の魔法が点めつして二人を急かす……さあ急げ、魔法がとける……
 マサミの口から、切れ切れの息とともにもれるおまじない。左手で指折り数えられるその回数が、横断歩道の向こう側へと渡りきるまでに三回どころか片手分をこえていたにしても、にわか仕込みのマサミには正しく唱えることができなかったのかもしれないし、そもそもはなからそんなものはでたらめだったのかもしれない。
 というのも、結局このあと二人が目撃したのは、三上とナオミが仲良くしている姿で、しっぽを巻いて帰るはめになったから。
 帰りしな、リツ子はマサミをはげますために「人間万事塞翁が馬」というおまじないを教えてあげたのだけれど、すっかり落ちこんでぼんやりしているマサミの耳には「チンパンジー裁縫が上手い」と聞こえた。何が何だかわからないマサミは、チンパンジーがぬいものをしている光景を想像してしまったものだから、「怖い」と口にしつつも笑い出した。それを見てリツ子は「笑いながら怖がってる。マサミって不思議」と首をかしげ、でも明るさを取り戻したみたいだからそれはそれでうれしくって気持ちが軽くなり、ふと見上げた空にふわりと吸いこまれそうだった。


6へ続く

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