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連載小説『誕生日が待ち遠しい!』[1-2]

# 1

 いい子にしていようと、していまいと誕生日はやってくる。
 誕生日が嫌いな人だろうと、みんなから誕生日を忘れられてしまっている人だろうと、うそつきだろうと、正直者だろうと、いたずら好きだろうと、寄り道ばかりしている子だろうと、教室のすみでぼんやりしてばかりの子だろうと、学校の先生だろうと、成績がいい子だろうと、悪い子だろうと、お父さんだろうと、お母さんだろうと、おじいちゃんだろうと、おばあちゃんだろうと、いじめっ子だろうと、いじめられっ子だろうと、友だちがたくさんいる人だろうと、いない人だろうと、健康な人だろうと、病人だろうと、貧乏だろうと、金持ちだろうと、社長だろうと、大統領だろうと、政治家だろうと、科学者だろうと、兵士だろうと、戦争に巻きこまれて逃げ隠れている人だろうと、戦争に反対している人だろうと、海を見たことのない人だろうと、雪を見たことのない人だろうと、家族のいないひとりぼっちだろうと、だれにだって誕生日はやってくる……
 だから、寝ぼうした沢野リツ子にだって、もちろん誕生日はやってくる。
 しかも、明日。12回目の誕生日。
 だけど、今日ついていないのは、誕生日の前日で、しかも明日から夏休みだっていうのに、寝ぼうして学校に遅刻しそうで、朝からお腹が痛いってことだ。

 ドン、ドン。
「姉ちゃん。まだあ。早くしてよお」
 ソウ太がトイレの扉をたたく。ドン、ドン。
「お母さん。姉ちゃん、また占領しているよ」
 ソウ太は台所にいるお母さんに言いつけにいった。
 今度はお母さんがやってくる。お母さんもトイレの扉をたたく。
 トン、トン。
「ちょっといつまで入っているの。ソウ太がおしっこしたいって。また本を読んでいるんでしょ? いい加減にしなさい。どこか具合悪いの?」
 台所からソウ太の声がする。
「お母さん。いいのこれ? けむり出てるよ」
「ソウ太、火を止めて。ああもう。リツ、どっちでもいいけど、遅刻よ。ソウ太、止めた?」
 と言うお母さんの声は、スリッパのパタパタという音とともに小さくなっていった。
 ソウ太の返事が今度は玄関のほうから聞こえる。
「やめた。おしっこもういいや。学校でする。遅刻しちゃうもん。いってきまーす」
 玄関からくつをはくのにつま先をトントンとする音がする。
「姉ちゃんのばあか」
 とソウ太の声が小さく聞こえた。そして玄関がバタンと閉まり、トイレの扉がガタガタとふるえた。
 リツ子はトイレから出て、洗面所で手を洗う。鏡をじっと見た。顔を左右に振り、右と左の横顔を交互に見くらべる。
 鏡には不満げな顔が浮かぶ。
 というのも、右のまぶたは二重なのに左は一重なので、左目のほうが細く見えるからだ。リツ子は右手の小指の先で左のまぶたの上をそっとなぞった。左目も二重になった。わざとらしく笑ってみる。
 またお母さんの声。無人のトイレに話しかけている。
「まだ入っているの? 具合が悪いなら言いなさい。お母さんももうすぐ出かけなきゃいけないんだから」
 そう言うと、お母さんは洗面所に入ってきた。
「きゃ。びっくりしたあ。ここにいたの」
 驚いたお母さんの声はひっくり返っていた。
「だったら返事ぐらいしなさいよ。びっくりしたじゃない。具合悪いの?」
「平気」
 リツ子は鏡を見たまま返事をした。
「じゃあ、またトイレで本読んでたの? 朝はやめなさい。ソウ太はがまんして、そのまま学校行っちゃったんだから」
「ちがう。ちょっと腹痛がしたの」
 とリツ子がつんとした拍子に、左目の即席の二重がくりんと一重に戻ってしまった。
「ならそう言いなさいよ。まだ痛い?」
「もう平気。たぶん」
「ならいいけど。目をあんまりいじっちゃだめよ。前も言ったでしょ。傷つくからやめなさいね。そこいい? お化粧させて。もう仕事行かなきゃいけないから」
「どうぞ」リツ子はぶっきらぼうに言って鏡をゆずり、洗面所を出た。
「朝ごはんテーブルにあるから、さっさと食べなさい。ねえ、もう遅刻じゃないの? いつまでものんびりしてないで。終業式を遅刻なんてやめてね。前の学校のときみたいに、遅刻が多いです、気をつけましょう、なんて通知表に書かれないようにしなきゃ」
 お母さんは化粧しながら言った。
 食卓には、トースト、サラダ、少しこげた目玉焼き、ヨーグルトが並んでいた。
 あんまりおなかすいてないな。
 リツ子は目玉焼きをトーストの上にのせて、二口だけ食べた。そしてヨーグルトだけ手に持って、食卓のいすを窓の前へと引きずっていった。
 お母さんがリビングに戻ってきた。リツ子は窓の前に陣取り、外を眺めながらのんびりヨーグルトを食べていた。
「なにしてんの、リツ」
 お母さんは強い口調で言った。
「納涼」
 リツ子はそっけなく答えた。
 お母さんはあきれて、ため息をつき、
「もう……。お母さんだって忙しいんだから……。昨日も言ったけど、今日お母さん仕事で帰りが遅いからね。夕飯はカレー。ソウ太と一緒に食べるのよ。ソウ太のぶんも用意してあげて。わかった? いい?」と言いながら食卓を片づけはじめた。
「ねえ、ちゃんと聞いてるの? わかった? お昼は……今日はサンドイッチ作って置いとくから」
 リツ子は、はあい、と生返事をした。
 台所から水の流れる音がしはじめ、お母さんは皿洗いしながら、
「ねえ。そんなにふてくされないでよ」と言った。
「……なにが?」
「あなたの誕生日。仕方がないでしょ。お父さんは出張なんだから。お祝いをしないって言ってるわけじゃないんだから。お母さんは明日はお休みだから。ソウ太と三人でしましょ」
「別にふてくされてないよ」
「そお? じゃあ、さっきからなによ。不機嫌な態度で」
「フクツウのせい」
「え? まだ痛い?」と言って、お母さんは水道を止めた。
「うそ。うだるような暑さのせい。ああもう、うだっちゃってしょうがない」
「なんなのよ。もう夏バテ?」
「平気だよ。あたし、誕生日嫌いだし」
「またあ。そんなこと言って」
「いいの、誕生日なんて来なくって。年をとらなくて、ずっと若いまんまでいられる」
「やめてよ。小6でそんなこと。ねえ、もう遅刻するよ。夏休み気分は明日から。しっかりしなさい。テレビ見てないなら消して、さっさと準備する」
 風が吹きこむ。レースのカーテンがふくらんでリツ子の肌をさっとなでると、しぼんでいき、カーテンのはしがヨーグルトに落ちた。
 リツ子はなんだか急に力が抜けた感じがした。
 ふう、そろそろ行くか。
「ねえお母さん。うだるってなに?」
 リツ子はイスからおりて、ヨーグルトの器を台所に片しに行った。

 リツ子は小走りした。まわりにランドセルの子はいない。
 まずいなあ、ほんと遅刻だ。
 リツ子は立ち止まってまわりを確かめた。フェンスのすき間に体をねじりこんで、大きな空地に入っていく。
 フェンスには、「マンション建設予定地 関係者以外立入禁止」と書いてある。リツ子がこの町に引越してきた春には、この空地は近所の子どもたちにとって公園代わりであり、ここを抜けると学校へはだんぜん近道だったから、非公式の通学路でもあった。
 しかし、最近になって突然フェンスで囲まれてしまった。大きなマンションが新しくできるのだという。
 お母さんとお父さんの話では、マンションができるとうちから富士山が見えなくなるそうだ。空地がなくなり「セイビ」されていくのは、ここが新しい町だから仕方のないことらしい。
 でもそれより困ったことは、学校へ遠回りしなくてはならなくなったことだ。それはリツ子だけでなく、この辺の子どもたちはみんなそう思っていた。
 ときおり、遅刻しそうな子が雑草ののびる空地を駆けていく姿がちらほらあるのだけれど、今日はリツ子ひとり。雑草をかきわける素足がチクチクする。


# 2

 ホームルーム。黒板の前では学級委員長の金田ケンタがひとり話している。
「……だから、小学生最後の夏休みを有意義に過ごすには、目的と計画性を持つことが大事です。今年のぼくの目標は、受験があるので……」
 担任の富岡先生は窓ぎわのイスに足を組んで座り、紙の束を退屈そうにめくっていた。
「ねえ、マサミ」
 リツ子は目の前の背中をつついた。
「なに?」
 山下マサミは振り返って、小さく返事をした。
「あれなんなの?」
 リツ子は前方を指差してささやいた。
「演説。リッちゃんは知らないっけ? 学期のはじめや終わりとか遠足のあととか、なにかと金田くんはお話をしたがるのよ。恒例なの。長いよ」
「恒例? 演説? ふうん。ただの自慢話にしか聞こえないけど。この学校の人はみんなおしゃべりなのね。校長先生の話も長いし」
「ちがうよ。あの人たちは特別」
 マサミはくすくす笑いながら前に向き直った。
 金田の熱弁は続く。
「休みだからといって、遅くまで起きていたり、遅くまで寝ていたりするのはよくありません。だらけた生活は健康にもよくないんです。普段通り早寝早起きを心がけましょう。できれば一日の大まかなスケジュールを立てておくのが理想です。ぼくは毎年そうしています。何時に起きて、何時から何時までは塾で、何時から何時までは学校の宿題をする。そして何時に寝る。そういうことをしっかり決めておくと規則正しい生活がおくれると思います。夏休みの終わりぐらいになって宿題に追われるなんてこともないです。ぼくは一度も夏休みの終わりにあわてたことはありません……」
「やっぱ自慢だよ」
 リツ子はぼそっと言った。目の前の背中がかすかに笑った。
「……そういうときはラジオ体操が役に立つと思います。健康にもいいし、早起きにもなり、生活にリズムができます。今年転校してきた人たちは知らないかもしれませんが、この町内ではシロアト公園でラジオ体操を行なっています。みんなぜひ参加してください。ちなみにダソクながら申しますと、シロアト公園はなんでシロアトという名前だか知っていますか? 実はなんと江戸時代まであそこにはお城があったからなんです。ぼくは去年自由研究で町の歴史を調べたのですが、それによるとこの辺一帯は……」
 マサミが後ろ手に、小さく折りたたまれたノートの切れはしをリツ子の机に置いた。
 それを広げると、「ダソクってなに?」と書いてあった。リツ子は切れはしの空いているところに、「ヘビの足」と書き足して、マサミのわきの下から机に置いた。
 マサミはそれを読むとけげんな顔で振り向いた。声を出さずに口をパクパクさせて首をひねった。たぶん「ヘビ?」と言いたいのだろう。また新しい切れはしをリツ子に渡した。今度は大きく「???」と書いてあった。
リツ子はその余白にヘビのイラストと「ヘビに足は余計でしょ」と書いて渡した。
 マサミは受け取ると首をかしげた。しばらくして「あー」とうなずくと、切れはしに書き足してすばやく手を後ろに回した。
 それには、ヘビのイラストに四本の足が描き足され、「とかげになっちゃうもんね」と書いてあった。
 リツ子はたまらず吹き出してしまった。
 クラスのみんながリツ子に注目し、金田の演説も一時中断。
 リツ子はとっさに手で口をおさえて、申し訳なさそうに何度も頭を下げた。
 みんなが向き直って、金田が再び話しはじめると、前の背中をつついた。マサミが振り向くと、リツ子は眉間にしわをよせて「もう」と声に出さずに口をとんがらせた。しかし、マサミは状況がさっぱりわかっていないようだった。

 演説はまだ続いた。金田は大統領にでもなった気分だった。
 それによると、どうやら金田のおじいちゃんはこの町内ではえらい人で、近くのなんとか神社の夏祭りではおみこしを取りしきるらしく、金田もかつぐから、ぜひみんなも参加してほしい、ということだった。
 それにしても、演説原稿やカンニングペーパーがある様子がないのにつまることなくとうとうと話せるなんて、ほんとに金田の演説は恒例なのだな、とリツ子は感心しながらも退屈でしかたがなかった。
 まわりをゆっくり見渡す。
 えんぴつを回している人。あくびをしている人。夏休みのお知らせのプリントに落書きしている人。こくりこくりと眠そうな人。夏休みの宿題のドリルをもうはじめている人。地図帳を見ながら空想の旅をしている人。机を鍵盤にして空想のピアノコンサートをしている人。
 いろんな人がいて、いろんなことをしていた。
 教科書を筒のように丸めて、望遠鏡のようにして教室を眺めている人もいた。ろうか側の席に座っている安田ヤスオだ。
 望遠鏡はまず金田をのぞいた。金田はそれに気づいて、望遠鏡をにらみ、せき払いをした。
方向が変わって、次に先生をのぞいた。安田は驚いたように望遠鏡から眼を離し、肉眼で確かめた。先生が鼻をほじっていたのだ。安田は声をこらえてにやにや笑った。
 安田は望遠鏡に眼を戻し、偵察を再開した。
 今度は安田の仲良しの竹本タケシのほうへと方向転換した。
 竹本はわざわざメガネをはずし、机にうつぶせになって居眠りをしていた。なのに、望遠鏡の気配に気づいたのか、はたまた安田がテレパシーでも送ったのか、見事なタイミングで竹本はむくっと起きてメガネをかけた。そして、テレビで見たのであろう、敬礼のまねをした。すかさず偵察隊も敬礼を返した。竹本のほっぺには赤く居眠りのあとが残っていた。
 二人とも真面目な顔でそんなことをするものだから、ひそかに観察していたリツ子は笑いそうになってしまった。ほかの人は気づいていないようだった。
 望遠鏡はまた方向を変えた。
 今度は篠崎ナオミを監視しているようだった。ナオミは女子のリーダー的存在で、安田の天敵だ。安田がおもしろいことをしても、安田を注意すること度々。でもほんとは一緒に笑いたくてしかたがないはずだ。
 しばらくするとナオミは偵察の存在に気づいた。ナオミは「べえー」と舌を出した。偵察隊はひるみ、勝負がついた。
 次の標的は、マサミのようだった。しかし、マサミは長い髪を手ぐしでといたり、毛先をいじってばかりで、まったく気づいていない。
 つまらなそうに望遠鏡はマサミを通過した。
 次は? あたしだ! 
 そう予感がしてリツ子は下を向いた。
 望遠鏡は新たな標的をとらえた。標的は下を向いている。標的はびびっているのか、何か企んでいるのか。緊張が走り、偵察隊は息をのむ。
 標的が顔を上げた。その瞬間望遠鏡に飛びこんできたのは、指で目と口を横にひっぱり、鼻を押し上げたリツ子の変な顔だった。
「うわっ!」
 安田はびっくりして、後ろのカベに頭をぶつけてしまった。
 教室が静まり返った。しかし、その犯人が安田だとわかると教室中に笑いがあふれた。安田は後頭部をさすりながら照れ笑いを返した。右目のまわりに、望遠鏡のあとがまあるく残っている。

「ゴホン。それでは、本題に入ります」
 威厳たっぷりに金田が言った。教室中からため息がもれた。金田はまったく気にする様子がない。
 本題ってなに? あれだけしゃべったのに今から本題なの?
 リツ子の胸に疑問と不満がわき上がってきた。
「ええ、夏休み中の飼育小屋の掃除、うさぎとにわとりのえさやり。それと花だんの水やり。へちまにもついでに水をあげることになっています。その当番を決めます」
 金田は手もとの紙を確認しながら話す。
「うちのクラスは八月の最初の一週間を担当することになっています。小屋の掃除は期間中一回でいいです。だれかやりたい人はいませんか? 複数いると交代でできて助かるのですが……」
 安田が手を挙げた。
「はい! そんな人いません」
 どっと笑いがおきた。
「安田くん、ふざけないでください」
 金田はむすっとした。気を取り直してから続けて言った。
「だれかいませんか?」
 教室がざわざわしはじめた。
「おれ、じいちゃんちに行くから、無理」
「わたしも」
「ぼく、夏期講習があります」
「そうそう、わたしも。やだなあ」
「家族で旅行に行くんで」
「野球の合宿があってさあ」
「あ、おれもだ。忘れてた」
 みんな手も挙げずに言い散らしていた。
 先生が紙の束からちらっと視線を上げて様子をうかがった。金田は落ち着きがなくなって、視線があちこちにさまよっていた。見かねた先生が立ち上がろうとしたとき、金田は自信なさげに言った。
「ええと、ええーと。じゃあ。山下さん、やってくれませんか? 山下さんは生き物係だから。みんな無理みたいなので……」
 クラス中の視線がマサミに集まった。
 マサミは髪から手をはなし顔を上げた。みんな自分を見ているようでたまらなくなって、すぐまた下を向いてしまった。だれも聞き取れないほどの小さな声で何かぼそぼそと言っていた。
「山下さんどうですか? 無理だったら言ってください。できそうですか?」
 金田が冷静な口調で言った。マサミに注目が集まることで場がおさまり、担当もこのまま決まりそうな雰囲気だったので、金田は落ち着きを取り戻していた。
「決定」
 だれかがぼそっと言った。それにつられるように何人かが小さく拍手した。
 リツ子はすごくいやな気分になった。お腹がぎゅっとしめつけられるような感じ。
「ねえ、いいの? 決まっちゃうよ」
 前に乗り出しマサミにささやいた。マサミはひざのあたりをぎゅっとつかみ、その部分のスカートがしわくちゃになっていた。
「塾があるんでしょ?」
 もう一度ささやいた。マサミは黙ってうなずいた。
 リツ子はゆっくり息を吐き、静かに手を挙げた。
「山下さんは夏期講習があるので無理だそうです」
 強い口調で言ったが、みんなと目が合わないように黒板の上の放送スピーカーを見ていた。心臓の音が聞こえそうだった。
 再び教室が静かになった。波がひいていくように、みんなの視線の向きが変わっていくのがわかった。
 リツ子はほっとしたが、マサミはまだ下を向いてじっとしていた。
 少しずつ、また教室がざわつきはじめた。
 金田は「ええと、ええーと」とぶつぶつくりかえし、なんとか「じゃあ。ほかにだれかやってくれませんか?」と弱々しい声をしぼりだした。
 みんな互いに顔を見かわした。下を向いて、もぞもぞしている人もいた。
「カネケンがやればいいじゃん」
 突然だれかが言った。
「ええと……。いやぼくは、ほら、担当を決める係だし……」
 金田の耳が赤くなっていた。
 また教室はざわつき、勝手な発言にあふれた。
「そうだ、そうだ」
「いいじゃん。賛成」
「カネケンはおじいちゃんと一緒に住んでるんだから行く必要ないもんな」
「ラジオ体操の帰りに学校によればいいんだよ」
「名案!」
 何人かが手をたたいた。
 金田は顔まで赤くなった。
「ぼくだって……夏期講習があります」
 金田はそう言ってから、声にならない声で「ずるいよ」とつぶやいた。
 その間、リツ子は机にうつぶせになり黙っていた。教室のざらついた雰囲気に目と耳をそむけていた。両足のかかとでイスの脚をトン、トン、トンとリズミカルにけった。だれも知らない出来たての小さな音楽だ。
 だれかが「推せんとか多数決で決めようよ。これじゃあ永久に決まんないよ」と言った。
 金田はその発言にすぐに飛びついた。
「そうですね。だれか推せんしてください」
 ナオミがぴんと手を挙げた。
「はい、篠崎さんどうぞ」
「わたしは沢野さんがいいと思います。なぜならこの間、夏休みはどこも行く予定ないしひまだって言ってました。それに受験しないから夏期講習もないと思うのでいいと思います」
 みんな黙ってリツ子のほうに振り返った。
 驚いたリツ子はうつぶせのまま、そっと前方の席をのぞいてみた。一人だけ振り返らず前を向いたままのナオミのぴんとした背中が見えた。
 マサミが振り返り、困った顔でささやく。
「リッちゃん……」
 リツ子は一度目をつむり深呼吸をすると、体をおこした。
「はーい。あたし、やりまーす」
 わざと能天気な調子で言った。
「おお」とどよめきが起こり、みんな手をたたいた。
 マサミだけはいまだ心配そうな顔だった。
「いいの?」
「平気平気。確かにヒマジンだし。それにこう見えてうさぎ好きなんだよね、あたし」
 リツ子はふざけた調子で言った。
 マサミはぎこちない笑顔を作り、「ならいいんだけど……」と力なく返し、また下を向いてしまった。
 教室の雰囲気は緊張から解放されたようになごやかになった。そんな雰囲気を引きしめるように、金田は議長らしく振る舞おうとした。
「では、一名は沢野さんで決定です。沢野さんお願いします。えっとー、では、もう一名やってくれる人いませんか? 二人いれば交代でできますし、もしも、どちらかが体調をこわしたときのためにも、もう一人必要だと思います。沢野さんの希望の人はいますか? 仲のいい人でいいです」
 リツ子はすかさず手を挙げた。
「ひとりで大丈夫です」
 また拍手が起こった。
 マサミはさらに心配そうな顔になって、リツ子を見つめていた。
「ほんと平気だってば。たった一週間でしょ。楽ちん」
 リツ子は朝鏡で練習した笑顔を思い切りやってみせた。
「それじゃあ、いいかなあ」
 と、いつの間に教卓の前に立っていた富岡先生がおもむろに言って、最後に手をパンとたたいた。
 
 窓がびりびりとふるえる。ゴオォォと飛行機の音がする。教室中の視線が窓の外にうばわれた。しかし、飛行機の姿は見えない。きっと校舎の上空を飛んでいるのだろう。ふるえる窓の向こうには、溶けかけのソフトクリームみたいな雲が真っ青な空にひろがっているばかりだった。

3へ続く


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