見出し画像

連載青春小説『Buffering-errors in the youth』(4/7)

前回はまではこちら

第一章   第二章   第三章


第四章 死せる男

 それは何の虫の知らせもなくやって来た。どうしてこんなことになっているのか。うまく飲み込めない。
 こんなクソ暑いのに、みんなおそろいで黒い服を着て、うつむいている。ぼくは数ヶ月ぶりに高校の制服をひっぱり出した。胸から空気が抜けていくような感じがして苦しい。すすり泣きが聞こえる。みんな親しい誰かが死んでしまったみたいに悲しみ、ふさぎこんでいる。そう、誰かが死んでしまったみたいに……
 死んだのはケンジ叔父さんだった。昨日、そう母さんは言った。母さんにとってケンジ叔父さんはただ一人の兄弟だったから、ひどく悲しんでいる。母さんの父さん母さんも亡くなり、ただ一人の身内だったからなおさらだった。
死んだのは昨日じゃない。ケンジ叔父さんは独身で、前に母さんから聞いた話では、おじいちゃんが死んだあとに実家に戻ってきて、そのあとすぐおばあちゃんを看取ることになり、そのまま古びた実家に住み続けていた。他人に頼らずなんでも自分でしちゃう人だったから、その日も自分でパラボラアンテナの調子を見るために二階のベランダから身を乗り出していた。そして、錆びついていた手すりが折れて、ケンジ叔父さんは庭に落ちてしまった。庭は手入れがされていなかったから、伸びた茂みが、ケンジ叔父さんが仰向けで倒れているのを外からは見えないように隠してしまった。ぼくが耳にした話では、落ちたときに即死だったんではないかと言う人もいたけど、ほんとのところはわからない。それから一週間とちょっと経って、ガスメーターの検針の人が庭に入って、倒れているケンジ叔父さんは発見された。その間、天候が不順で大雨やカンカン照りの繰り返しだったから、ケンジ叔父さんの遺体は見るに堪えないものだったらしく、一旦は事件性も疑われたほどだった。

 誰が選んだか知らないけど、遺影のケンジ叔父さんはケンジ叔父さんはではなかった。ぼくの知っているケンジ叔父さんはネクタイなんかしないし、いつも不精ひげを生やしていて、小さい頃ぼくは叔父さんのほおずりがたまらなく嫌だったし、それにあんな真面目な目つきではなかった。ぼくの前に来るケンジ叔父さんは、なぜかいつも、そういかにも市民プールの帰りみたいな風情だった……
 ケンジ叔父さん、覚えているよ。
 小学生のときよく、近所の市民プールに連れてってくれた。泳ぎを教えてやるって。でも、スイミングスクールで習ったことと全然違うことを言うから、あのときはほんと困ったよ。
キャンプにも連れてってくれてありがとう。火の起こし方とか、飯ごうの使い方とか教えてくれた。何かあったとき、男はこんくらい出来なきゃいけないって。でもその「何か」って何なんだろう。夜はとっても寒かったから、何回も一緒に真っ暗闇の野原で立ち小便して。し終わると二人して同時に体をブルッと震わしたのは可笑しかった。
 あれはもう、いつ頃だったか忘れてしまったけど、筍をたくさん持ってうちに遊びに来たよね。母さんが料理して、それはとてもおいしかった。なのに母さんは不機嫌で、ケンジ叔父さんのことを悪く言っていたのは、あの筍がやっぱり母さんが言うようにひとんちの林から盗ってきたものだったから?
 ケンジ叔父さんが仕事を辞めてまでアメリカへ放浪の旅に行くって聞いたときは驚いたよ。しかもエルヴィス・プレスリーの墓参りだなんて。母さんはしばらく激怒してたよ。でも、しばらく会えなくなるからって、わざわざ会いに来てくれてうれしかったよ。そう、それにお土産のヌードペン、今でも大切に持ってる。旅の話、もっと聞きたかったのに。
 それから、去年ぼくが高三のとき、こっそりやって来て、ぼくの誕生日のお祝いにって、寿司に連れていってくれたよね。回っていない高級なやつ。ほんとにおいしくて、そのとき味覚にも天井があるって知ったんだ。ケンジ叔父さんは「これよりうまいものはまだまだたくさんあるから、連れてってやるって」って言っていたのに……なのに、こんないなくなり方はないよ。今思えば、進路のことで多少悩んでいたのを知っていた母さんあたりが頼んだんでしょ、相談に乗ってあげてって。他人の誕生日なんて覚えるような人じゃないもんね。その帰り道、突然ケンジ叔父は「悩みはないか?」って気まずそうに訊いてくれたけど、その前に「人には生と死しかない。それを貧しいと思うか、豊かだと思うかで、人生は違ってくる」なんて難しいこと言うから、進路の悩みなんてちっぽけで言えなかった。
 でも今は逆じゃないかと思うよ。人には生と死しかないからこそ、ちっぽけな悩みをするし、してもいいんだって。
 説明しろって言われたら困るけど、ぼくは少しずつ何が起こったのかわかり始めてきたような気がした。たぶん複雑過ぎてわかりにくいんじゃなくて、シンプル過ぎてわかりにくいことなんだって。

 いつの間にか、母さんがみんなの前で話をしていた。
「弟は小さな頃からだらしなくて、みなさまにもご迷惑を……」
ぼろぼろ涙を流して、何度も言葉がとぎれた。大人の女の人がこんなに泣いているのをはじめて見た。
 ぼくは上着の内ポケットに隠し持っていたヌードペンをこっそり出した。掌の中で金髪美女がヌードになっていくのをうつむきながら見ていた。
肩を叩かれた。
「バカ」
 姉ちゃんの声だ。隣を向くと、姉ちゃんも目を真っ赤にしてぼろぼろに泣いていた。

 葬式が終わるとぼくだけ電車で先に帰ることになった。明日は模試があるからって帰らされたんだ。ケンジ叔父さんの分まで頑張りなさいって訳のわからないことを言って。文句も反論も言わなかった。みんな悲し過ぎてどうかしちゃっているだけなんだ。でも、勉強する気にはなれないのは許してほしい。誰だってそうでしょ、ひとりの人間が死んだことに役に立たないことなんて、やりたくない。
 揺れる電車の中で慣性力に翻弄されるぼくは、吊り革を握る手に力を込める。いまだに胸が苦しいのが治らない。電車の中の、まわりの人たちみんながぼくを見ているような気がして、涙が出そうなのを必死でこらえた。
 なぜだろう。まわりの一人ひとりの顔が、どこかで見たことがあるような、誰かに似ているような気がしてならない。ぼくはますます息苦しくなった。
 
 悩みはないか? 
 あるよ、ケンジ叔父さん。
 今のぼくの悩みは……まわりにいる人たちがみんな、どこかで見たことがあるか、誰かのそっくりさんのようで、なのにそれが誰であるか一つもわからないんだ……


第五章に続く


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?