スクリーンショット_2014-06-08_23.29.57

連載青春小説『Buffering-errors in the youth』(1/7)

(全7話)

第一章 予備校、あるいはオランピア

 これ、ちょっとした発見だと思う。
 男子と女子のあいさつには独特な感じがあって、男子どうしや女子どうしのとはちょっと違ったニュアンスがあるってこと。
 たとえば、ぼくと幼馴染のスミレの場合はこんなふう。
まずタイクツそうに机に突っ伏す!――タイクツっていうのが重要なポイント。その加減は人それぞれ時と場合による。今までで、ぼくのオスカー級のやつは「地球滅亡まであと一週間しか残されていないのにやりたいことはたいていやり終えてしまったぜ」ってくらいのSF級のタイクツさをかもし出せたときかな。やりすぎて心配されちゃったけどね――。
 まあとにかく、男子たるもの、しかるべきときにタイクツさをかもし出せないといけない、しかもこれ見よがしにならないように……というのはライターをしている姉ちゃんからの受け売りで、いまいちピンとこない部分もあるけれど、ものわかりがいいっていうのも男子の要素の一つだ(とも、姉ちゃんは言ってた)。
 それでもってぼくのタイクツのレパートリーの中で一番得意なのはこれ。
……自分の怠慢は棚に上げて、将来の夢なんてないなんて斜に構えてみせては、何かにつけてどっかで聞きかじった「学歴偏重社会、偏差値批判」をのたまって、というかそれらを怠慢の理由にしつつ、そのくせ内心結構高望みで見栄っ張り、すべり止めも実力より上の大学にしてしまったものだから、もちろん落ちに落ちまくって浪人決定……は予定通りみたいなふりをして、少なくとも友だち連中には落ち込んでるふうなんて微塵も見せずに卒業式をやり過ごし、淡々と予備校入学の手続きをするのだけど、知り合いの少ない予備校を選んだものだから、講義についていけなくても教えてくれる友だちはいない、話し相手もいない、見た目どおり人見知りだから新しい友だちも作れずもうすぐ夏期講習、やる気もないけど他にココロザシもないから、結局「受験勉強」に寄りかかるしかなくだらだら続けているオチコボレ浪人生……のくせに自分より上のコースのハイレベルな物理の講義に忍び込んで10分でギブアップってときのタイクツが一番得意なやつだ。なぜって、今置かれている状況がまさにこれだから。
 要は、タイクツそうに机に突っ伏しながらヌードペンを傾けると、掌の中で金髪美女が服を脱いでいって豊満なボディがあらわになる瞬間、左脇にボディブローを食らって、痛くないのに、ウッ、ってうなって大げさに体をよじってみせながら左を振り向くと、ほお杖ついたスミレのしかめっ面、というのが今日のぼくとスミレとのあいさつ。で、互いに含み笑いを交わし合う。その瞬間、奇妙な感覚が体の中で起こる。いつも思うのだけど、この感覚はなんだろう? ジェットコースターが落ちる瞬間にフワッとする感じに似ているこの感覚は……。

 ハイレベルな講義ゆえか、はたまたタイクツを地でいったためか、いい加減ムズムズしてくる。冷房の快適さはなごり惜しいけれど、終了のチャイムが鳴る前に、隣のスミレに「お先に、じゃあね」とジェスチャーで示して、教室を抜け出した。
 一階のエントランスホールにガラス戸が付いた掲示板がある。講義や模試のお知らせや受験情報が掲示されている。ぼんやりとそれを見ていると、掲示板のガラス戸に映っている無数の冴えない顔に――失礼な話だけど――食欲が減退する。さらに自分の顔もその一つだと思うとなんだかますます気が滅入る。するとそこに覚えがある顔が一つ現れ、ぼくに微笑みかけている。
「さっきの何あれ?」
 スミレだ。
「早いね。さっきの? ああ、ボールペン? ヌードペンだよ。あれをさ、反対にひっくり返すと……」と言いながら、鞄の中をまさぐった。
「いいって出さなくて。こんなところで」
「そお?」
 と言ってぼくはまわりを見た。階段とエレベーターから吐き出される人々で、ホールは雑然とし始めていた。「叔父さんからもらったやつで。アメリカ旅行のお土産。いやあ、お話についていけなくてさ」
 スミレはきょとんとした表情をするので、「さっきの講義の話」と付け加えた。
「それはそうよ。アキオのコースより上なんだから。進度だって違うでしょ? ちゃんと自分の方のクラスに出なよ」
「うちの講師、わかりにくいんだよ。それに、むしろむずかしい方が理解できちゃうかなあなんて思って。むしろね。でもさっぱり。世の中は見かけ以上に複雑なんだねえー」とぼくがふざけた調子で言い終わる頃には、スミレはすっかりあきれ顔。そうとくれば「バッカじゃないの?」というセリフがセットでついてくる。
 これもあいさつのお約束みたいなもんだ。腹が立つ? まさか! 女子に「バッカじゃないの?」って言われたぐらいで、腹を立てたり、凹んだりしていたら、世の中から男子は絶滅しちゃうよ。正直、悪い気はしない、ってくらいが男子としてのたしなみじゃないかな。そんなときはユーモアの一つも返さなきゃいけない(とはこれまた姉ちゃんの言葉で、姉ちゃんにイタズラされた後、ぼくがブーブー文句を言っていると、姉ちゃんにそう説いてきかされるのが常で、まあ、たんに都合のいいように言いくるめられているだけという意見もあるけど)。
「だから浪人してんの」
 ぼくはおどけて言った。
「得意にならないでよ、もう。ところでお昼は? 午後も講義あるんでしょ。コンビニ?」
「うん。そっちは友だちと?」
「そう。じゃあね」
「あ、さっきはありがとう、これ。やっぱりスミレの説明はわかりやすいよ」と去り際のスミレに、鞄から出したテキストを指差しながら言って、答えを見てもさっぱりわからなかった問題を先の授業前に教えてもらったお礼をした。スミレは教え方がうまいんだ。
「いいえ、気にしないで」と言ってスミレは腕時計をチラリと見た。「友だちを待たせてるの。急がなきゃ。じゃ」
 そう言うとスミレは正面玄関の向こうへと消えていってしまうのだけど、その様子は、相変わらず、運動神経の良さそうな、見ようによっては小動物のような小走りで、ほんとはどんくさいくせになぜかそう見える。その点ぼくはだらしないもので、校内は冷房が効いているものだから、弁当を買いに外に出てると、夏の蒸し暑さにすっかり参ってしまう。アスファルトに誤って這い出てきてしまったのたうつミミズ状態。
 どうせならミミズじゃなくて植物の方がいい。
教室で味気ない弁当を食べながら思う。浪人生にとっての昼食なんて、しょせん栄養摂取以上でも以下でもない。「滋養」すらなんだかおしゃれな言葉に思えてしまうほどだ。人間だって、植物みたいにひなたぼっこしているだけで、光合成で栄養が摂れてしまえればいいのに、なんて考えてしまうのは、たんなるものぐさゆえだろうことはよくわかっているのだけど、それにしたってなんで人間は光合成をしないんだろう、と真面目に考えてしまう。そんなときはいつだって、中学生のときからずっと同じ結論にいたる。誰だって一度や二度は友だちとこんなことを話題にしたことはあるんじゃないかな。
結論。緑色の肌じゃ気色悪い。あえて二足歩行を選んだ人間だもの、機能性より見た目重視ってわけ。
「バッカじゃないの」とどこかから聞こえてきそうだけれど、「兎と亀の競争」みたいな予備校の雰囲気の中でこの弁当を食べてもらえれば気持ちはわかってもらえると思う。ぼくにはむしろ『不思議の国のアリス』の「コーカス競争」みたいな方が性に合っているんだ。
 弁当を食べ終えると、キュルキュルと腹が鳴る。腹を下したサインだ。
 安ものの弁当 × 冷たいウーロン茶 × 冷房 × 浪人生特有の神経質 = トイレに直行
 ああ、情けないくらいにわかりやすい。こうなると、生物、化学、物理に数学……みんなうさんくさくて、無駄に小難しく思えてくる。人間の体は見かけ以上に単純で、しょせん、口から肛門への一本のパイプや管のようなもんなんだ。
 とっさの思いつきにしては、なかなか深い箴言じゃないか! ケンジ叔父さんならわかってくれるに違いない。でもスミレや姉ちゃんが聞いたら失笑間違いなしだろうけどね。なぜって、根拠なしの経験的推量でしかないけど、こんな単純な現象、男子ばっかりじゃないだろうか。きっと女子の体はぼくらよりずっと複雑なんだろう……なんて悠長な事を言っている余裕はない。開門を迫るシュプレヒコール。トイレに走る。清潔さとトイレットペーパーの残量を迅速に見極めて、個室にこもる。便器に無事座ると、安堵と同時に全身脱力。薄れていく意識。体が、もはや、手足の付いた一本の管みたいだ。
 いや、人間は考える管である!
 人間としての矜持を保持するために、必死で『徒然草』を暗唱しようとするのだけど、「つれづれなるままに、心に移り行くよしなし事」はスミレのことだった。


第二章へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?