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連載青春小説『Buffering-errors in the youth』(3/7)

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第三章 草上の昼食

 しばらくしたある日。
 午前の授業が終わり、いつものようにコンビニの弁当を買いに行って戻ってくると、黒板の前にスミレがいる。小鹿みたいにきょろきょろしていた。ぼくに用とは思えなかったし、妙に意識し始めていたこともあって、自分から近寄って声をかける勇気はないくせに話はしたかったから、あわよくば発見されるようにと意図的に目立つ感じで、いかにも座る席を探しているかのような素振りをした。
 意図的に運命と偶然の部分を残し、待ちの姿勢で状況に対処し、宝くじやギャンブルのように「当たればラッキー、ハズレれば運命」と割り切る。こういう姑息で稚拙な手段はぼくみたいな気弱な奴がよくやることで、失敗したときのダメージを回避する技術だ。そんなんだから経験上うまくいったことはまれなんだけど、今回はうまくいってしまった。小鹿さんはぼくに気が付いて、こっちにやってきた。
「いたいた! よかったあ。元気? 探したよ。教室間違えたかと思った」
 もちろんぼくは突然で驚いたふうを装う。
「おお、びっくりした。どうしたの? こんなところで」
「ちょっと聞きたいことがあって」
「ぼくに?」
「アキオのお姉さんって、結婚するの?」
「なんで知ってるの? そうだけど」
「やっぱりそうなんだ。それを聞きたくて。おめでとう、って言っておいてくれる」
「もちろんいいけど。というかなんで知っているの? 用ってそれだけ?」
スミレはほくそ笑むと、ぼくが手にしているコンビニのビニール袋をチラッと見た。
「冷たい言い方ね。お昼はこれから? せっかくだから一緒に食べようよ」
スミレもコンビニのビニール袋を持っていた。
 ぼくは教室で食べるんだと思い、自分の席に行こうとしたら、スミレは「公園で食べようよ。裏の。天気いいし」と言って、ぼくが返事する間もなく「決まり」と言って教室の出口に向かった。
 予備校の裏手は丘になっていて、その中腹にさびれた小さな公園があった。急な階段を上る。突然公園が現れた。このあたりにしては意外なほど緑があった。この高さなら眺望がよさそうなのだが、校舎と公園の木々で遮られていて、こじんまりとした空間になっていた。そのときにはすでに、同じ予備校と思わしき人たちが何人かいて、ベンチや座れそうなところはほとんど埋まっていた。弁当を食べたり、参考書を読んでいたり、木陰で居眠りをしていたり。
「あそこにしよう、芝生で日陰だし」とスミレは言って指差した。そこには低い塀があって、下部には腰かけられそうな段差があり芝が生えていた。腰かけると、空気がひんやりとしていた。
 スミレはビニール袋からミネラルウォーターとおにぎりを一つ、そしてサラダを取り出した。
「それだけ?」と言いながら、ぼくは買ってきた弁当とウーロン茶を取り出した。
「ダイエット」とスミレはぶっきらぼうに言って、おにぎりの包みを取り始めた。
 女の子の言うセリフの中で謎めいている言葉の一つが、「ダイエット」だ。まずもちろん、「そうだね、ダイエットした方がいい」なんて返せるわけがないのだが、だからといって安易に「痩せてるし、必要ないじゃん」なんて言ってはいけない。良かれと思って言ったつもりでも、言い方次第ではセクハラまがいと受けとられかねないし、そうでなければ「見えないとこにお肉がついてるの」とかなんとかと反論されるのがオチだ。そう言われてしまえば「見えないとこ」は見えないのだから、それ以上会話を続けようがなくなる。「どこ?」なんて聞き返してはいけないのは言わずもがなだ。それに、ダイエットしていないときがないのではないかと思うほど年がら年中口にしているから、その言葉を信用してすでにダイエット中かと思いきや、「今年こそダイエットしなきゃ」と言い出すわけだ。こうなると、ぼくらからするとダイエットという言葉は、「おはよう」とか「こんにちは」みたいな定番のあいさつ、イギリス人にとっての天気の話みたいなものに思えてくるのだけど、もちろん女子にとっては現実的で深刻なことで、ぼくらが考えるよりずっとデリケートな言葉であるらしい。
 だから「ふーん」と言いながら、当たり障りのない言葉を探した。
 それを察してか、スミレは話題を変えた。
「お昼はいつも独り?」
「そうだよ」
「寂しいのね。あたしはだいたい高校のときの友だちと食べるんだけど、いつも独りなら、たまに来なよ。一緒に食べない?」
「いいよ。遠慮しとく」
「なんで? 女の子ばっかだから?」
「いや、別にそういうわけじゃないけど、いいよ」
 ぼくは気まずくって話題を変えた。
「ところでさあ、スミレ、もうA判定出たんでしょ。すごいね」
「ちょうど勉強してたとこが出ただけ。実際に合格したわけではないから、すごくない」
 スミレはぶっきらぼうに答えた。
「いやすごいよ。それに最難関私大コースにいるだけでもすごい。やっぱり頭いいよな、昔から」
「ええ、何それ、嫌味?」とスミレは口調を強くして言ったけど、ぼくにはそれがどういうことなのか、さっぱりだった。
「別に、嫌味じゃないよ。だって小学校のときからぼくより成績良かったじゃん。私立に進んだし……」
「何言っての。やっぱり嫌味じゃん。アキオの方が上だよ。あたしが塾に行ってからは違うけど、それまではアキオの方が上。少なくとも五年の途中までは」
 なんでスミレはそんなに具体的に断定的に言えるのか不思議だったんだけど、ぼくはそもそもスミレの成績が具体的にどのくらいだったかをまったく覚えていないことに気付いて、自信なく「嘘だあ」と言った。
「嘘じゃないよ。アキオ、あたしの通信簿見たことないでしょ」
「そりゃ、ないよ。でもスミレは頭がいいイメージ、優等生な……」
「最悪。そういう勝手なイメージやめてよね。あたしはちゃんとアキオの知ってるんだから」
「え? なんで知ってるの? 見せたっけ?」
 すると突然スミレは、もったいぶった口調になった。
「アキオのお姉さんが教えてくれたの。お姉さんとあたし仲良かったんだよ。本とかマンガとかCDとかよく貸してくれたし、小学校のときは何度も遊んでもらったし。高校のとき一度恋愛の相談もしたかな。知らないかもしれないけど、度々アキオの家に遊び行ってたんだから。そのときアキオの通信簿とかテストとか見せてくれて……」
「マジで! うそお! そんなこと知らない。姉ちゃんからスミレのことなんてほとんど聞いたことないよ」
 ぼくはのけぞった拍子に後ろの塀に頭を打ってしまった。自分でも意外なほどの狼狽ぶりだ。スミレに、ぼくの人生を舞台袖からこっそり観察されていたなんて。
「ちょっと大丈夫」とスミレは笑った。「知らなかったんだあ。それはそれでシャクね。アキオに負けていることがあたしには許せなくてそれなりに勉強したんだけど、要領が悪いのか、才能なのか、いつもアキオの方が上。しかも腹が立ったのは、アキオはそんなこと全然気にしてないし、たいして努力もしてない。なのにサラッといい成績取ってくる」
「そんなの知らない。なんにも言わなかったじゃん、ぼくに」
「それはそうよ。悔しがってるなんて知られたら、余計悔しいでしょ。それで五年の夏休み前くらいかな、お母さんに塾に行きたいって言ったの」
「え、ぼくに勝つため? 受験のためじゃ……」
「両方。もともとうちの親は私立受験させたかったから。塾に行くって言ったら喜んじゃって。だから五年の最後の方からは、あたしの方が成績よかったはず」
 スミレは、得意げな顔をしてから微笑みへと表情を変えた。その変化はたぶん一瞬だったのだろうけど、今のぼくにはそれがスローモーションのように感じられ、まるで顔が別の生き物のように、目、口、眉、皮膚、しわがゆっくりと形を変えていった。
「まあ、だから中学に入ってからが大変だったんだ。もともと私立に行きたかったわけではなかったし、短距離走のラストスパートのところでうまく受験を迎えて合格した感じだから、入学してからは実力に余力がなくて、勉強についていけなくて。でも、まあ高一ぐらいで追いついたけどね。高二の終わりぐらいには上位にいたし。生まれもっての才能じゃなくて努力。あたしは努力の人だから。やればできる子なの」と真顔でスミレは言ったあと、笑いながら「冗談、冗談」と付け足した。
 その冗談にうまいことを返す余裕は今のぼくには持ち合わせていなかった。「そうなんだ……」ぐらいしか言葉が見つからず、しばらく沈黙が続いてしまった。その間、気の利いた言葉の一つも浮かんでこない持て余された口に、ぼくは弁当を詰め込んだ。スミレはサラダを食べ終わると、ミネラルウォーターを一口二口飲み、手をつけなかったおにぎりをビニール袋にしまった。
「ほんとにびっくり。ほんと知らない。姉ちゃんと仲良かったなんて」
 ぼくは弁当の最後の一口を詰め込んだ口をもごもごさせながら言い、ウーロン茶を飲んで無理やり流し込んだ。
「ほんとに? 全然? ふーん。だって小学校卒業した後も、なぜかお姉さんとは道端でばったりなんてことが結構あったよ、アキオとは全然会わなかったのに」
「そうなんだ。それも知らない」
「だから小学校を卒業した後も、アキオのことはお姉さんからちょこちょことは聞いてたよ。えーと、確か中学がサッカー部で、高校はバドミントン部。当たりでしょ? それからあ、高二のとき好きな子に告白してふられたでしょ? 中学の夏休みに友だちと自転車旅行に行ったでしょ。当たり?」
舞台袖から観察されていたどころか、諜報活動のネットワークまで築かれていたなんて。驚きを通り越すと笑うことしかできないのだろうか。ぼくはひたすら薄ら笑いを浮かべていた。
「え、なーに笑ってばっか、気持ち悪いよ。で、当たりでしょ。……それから、カタツムリが苦手なんだよね。なんだっけ、ええと、寝ているときにアキオの部屋に侵入してきたカタツムリを、逃がさずにつぶしちゃったんでしょ。ひどーい」
「それも、姉ちゃんから聞いたの? ちょっと、というか全然違う。姉ちゃんのせいなんだ、カタツムリが苦手になったのは。確か小学校の低学年くらい。学校の帰り道、あじさいのところにいたカタツムリを拾ってきたんだ。お母さんは気持ち悪いからダメって言ったんだけど、ぼくは飼うことにしたんだ。使っていない小さい水槽があったから、それに入れて、毎日ちゃんとキャベツとか野菜の残りをあげて。ぼくは可愛がってたんだ。家族は誰も興味がなかったけど。それで、あるとき朝方、寝ているとさ、ほっぺのところがぬるっとして、それでこうやって、鼻の上を通って、まぶたの上まで、ぬるっとしたのが来て」と言いながら、ぼくは右のほおから左眼のあたりまで指でなぞると、スミレは顔をしかめた。「そんなふうになったら、誰だって気持ち悪いだろ。だからぼくは、うわって、手でそれを思い切り払ったんだ。寝ぼけてたし。そしたら壁にペチってぶつかって、見てみたら、飼っていたカタツムリだったんだ。それがトラウマになって今でもカタツムリはダメなんだ」
「なんでそこにいたの、カタツムリ。逃げ出したってこと?」とスミレは言いながら、ぼくへかカタツムリへかはわからないけど、憐れむ表情をした。
「違う」とぼくは大げさに首を振った。「姉ちゃんがいたずらで寝ているぼくの顔の上に乗っけたんだ。ひどいよ……、ほんとにひどいよ、あの人は。それで怒って、なんでそんなことするんだよって姉ちゃんに言ったらさ、何て言ったと思う? すごい可愛がっていたから、添い寝させてあげようと思って、だって……」
「すごい、お姉さんさすが!」
 スミレは手を叩いて笑った。
「……あ、そうそう、もうひとつ面白いのがあった。えーと、小学五年か六年? そのくらいに、夢遊病っていうの? そういうのになったでしょ。大きな寝言で、足が切られた、足がない、って叫んだんだって。それもはっきりと。あまりに大きいからおうちの人がみんな起きてきちゃって、心配して部屋に行くと、アキオが立ってて、立ってるのにまだ足がないって寝ぼけてんだって」とスミレは言いながら、笑いをこらえているようなニヤニヤ顔になってる。「で、お姉さんがアキオの足を触りながら、足ちゃんとあるよ、って繰り返したら、また寝ちゃったんだって」と言ったところで、とうとう吹き出した。「この話、お姉さんから聞いたんだけど、アキオのものものまね実演付きで説明してくれて。そのものまねが可笑しくて、すごい似ているの」
「覚えてないし、姉ちゃん、ぼくのものまねすんの?」
「え、それも知らないの。アキオの話をしているときに一回はものまねが入るね。それがそっくりなんだって。あたし、あれ大好きなんだよね。見せてもらいなよ、自分でもびっくりするから。でも……知らないんだ。お腹痛い、もう……」
スミレは、もう笑いが止まらない、って感じで腹を抱えていた。
 ぼくは今度は笑いを通り越し、呆然となっていた。海のずっと向こうへとひいていったはずの過去の波が大きな津波になって戻って来て、呑み込まれ、すべてが覆っていくようだった。
 成績がどうだとか恥ずかしいだとか、もはやどうでもいい。そういうことではなかった。
 ぼくの目の前にいるのは、ぼくの知っているスミレではない……。今ここにいるぼくは、スミレの知っているぼくではない……

 たぶん、ぼくの様子がおかしいと察したんだろう、そのあとスミレは全然関係のない話をした。講師の悪口とか、最近見たテレビの話とか、どこのランチがおいしいとか。でもぼくにはあまり頭に入ってこなかった。「うん」とか「へえ」とか、気の抜けた相槌しか言えなかった。いろいろなことがわからなくなっていたぼくは、なぜか、勉強しよう、そんなことばかりが頭に浮かんできた。急に向学心が芽生えてきたわけではない。くじけた精神の松葉杖になるようなものが、そんなものしか手持ちがなかったんだろう。
 スミレは立ち上がると、体を反るように伸びをした。
「ああ、早く受かって受験生をやめたいな。やりたいことたくさんあるし。ねっ?」
 浪人生であることは、確かに不自由であると思う。生活の隅々までが受験という照明のもとにあるからだ。その不自由さは誰にだって疎ましい。だけど、今のこの動揺した精神にはありがたいもののように思えてきてしかたなかったし、考えてみればぼくは大学に行って何をしたいのかもはっきりしていなかった。だけどぼくは曖昧に「そうだね」と答えた。
ぼくも立ち上がる。体が重い。まわりを見渡した。いつの間にか人が少なくなっていた。スミレは時計を見て、「時間かあ。遅れちゃう。戻るかあ」と言ってくるっと向きを変え、公園の出口へと歩き出した。ぼくも遅れて同じ方向に歩き出した。
「楽しかったあ。また来ようね。それにしても暑くない? あたしだけ? 笑いすぎたから? ふう」とスミレは矢継ぎ早に言うと、手を団扇にして顔を扇いだ。よく見るとスミレのほおや、髪を後ろに束ねているから露わになっている左耳の上部がほんのり赤みを帯びていた。気温のせいというより笑ったことで興奮で上気したせいであるように思えた。
笑われた仕返しっていうつもりはなかったんだけど、ぼくはスミレの独り言のようなしゃべり方や、効率が悪く冷房効果の低そうな、手首から先だけをペンギンの翼のようにハタハタさせている仕草が何ともいえず滑稽に思えてきて、可笑しくなってしまった。
「何よ。ニヤニヤして」
「いや、その手の動きがさ……」とぼくは笑いをこらえるように顔面の筋肉を不自然に硬直させ、喉元まで迫った笑い声が吹き出さないように唇を噛みしめた。
「え、何がそんなに可笑しいの? 感じ悪い!」とスミレは扇いでいた手を引っ込めてツンとして言うのだけど、何か可笑しなことをしてしまったんだろうかと戸惑い、身に覚えはないけど笑われていることが恥ずかしいと感じているのが、さらに紅潮してきたスミレの左耳を見てわかって、そりゃそうだ「感じ悪い」よな、とぼくは反省しながらも、まじまじとスミレの耳を観察してしまっていて、赤くなっていない耳たぶ部分から察するにもともとはバニラアイスのような綺麗な乳白色なんだろう、などと考えているうちに、こらえていた笑いの大波はさざ波に終わって「いやいやいや……。まあ、まあ何でもないから」と誤魔化した。でも妙な間が空いてしまったので、さらに誤魔化さなきゃと考えているうちに、おかしなことになってしまった。
「そんなに暑いなら、そうだ。これ使えば」
 ぼくはいかにも名案が浮かんだというふうに言って、ビニール袋に手を突っ込むと、もったいぶった身振りで、弁当の透明のプラスティックのフタを取り出した。
「これで扇げば涼しいよ」
 プラスティックのフタでスミレの顔を扇いだ。フタは軟弱だから扇ぐたびにペコンと音がして、でも手団扇と比べ物にならない風量にスミレはまんざらでもない顔だったのもつかの間、緑の草が風に乗ってスミレのほおに張り付いてしまった。
「きゃ、何なに?」
 慌ててほおを払ったスミレの手には、緑色のプラスティックのバランが乗っていた。弁当によく入っている、装飾や仕切りに使われるあれだ。草むらを模して、長方形の一辺がギザギザになっている。
フタにくっついていたんだ。当然ぼくは焦ったんだけど、それよりなにより、スミレの掌の上にあるバランの悪気のない佇まいに目を奪われてしまい、それはスミレも同じようだった。ぼくらは目が合うと、たまらず空に向かって吹き出した。何がどう可笑しいのかよくわからないけど、とにかく爆笑した。スミレが「何なのよこれ、最悪。汚い」と怒っているんだけど、明らかに笑いの方が凌駕していて、お腹をおさえていた。
 一通り笑いが全身を駆け抜けると小休止。今度はスミレが仕返しとばかりにバランをぼくのおでこに張り付けた。スミレはまた手を叩いて笑い出したから、ぼくはおでこから取って、ギザギザになっている方を下向きにして鼻の下にくっつけた。
「やだーなにそれー。意味わかんなーい」
「チャップリンさ」
「ちょっと貸して」
 スミレはぼくの口ひげをむしり取ると、左手で前髪を上げて露わになったおでこに、今度はギザギザの方を上向きにして張り付けた。
「クイーンよ!」と言ってスミレは右手を腰にあてた。
 すると、そのみすぼらしいティアラは、今度は、自然の風で吹き飛んでしまう。とっさにティアラに手を伸ばすのだけど、こんなやりとりをしているうちにいつの間にかぼくらは、公園を出てすぐの階段のあたりまで来ていて、気付いたときにはすでに緊急事態。ティアラを見事につかみ損ねたその拍子につまずいて階段から転げ落ちそうになったぼくは、一瞬このまま転がり落ちたら面白そうだな、なんてナンセンスなことを考えてしまうのだけど(そんなんだから本当に大学に落ちちゃったのか?)、さすがにそれは痛そうだなってときに、スミレがよろめくぼくの手をとっさにつかんだ。
 箸が転んでも可笑しい年頃なんてうまいことを言ったもんで、今ぼくらはそんな年頃なのかもしれない。なるほど、それが思春期を指すということになっているのもわからなくはないけれど、しかし成長過程の乗り越えるべき、あるいは通過すべきある段階、ある時期の特性だけでしかないのだとしたら、寂しい。もしかしたら、今ぼくらはその時期に別れを告げるために勉強しているのかもしれないのだと思うと、教室のみんなの顔が陰気なのもよくわかる。でもそれは本当なのか。何が気に食わないって、箸が転んでも可笑しいのが「年頃」の問題になっていることで、じゃあ何かと言われても困るのだけど、「能力」の問題だとしたらずるいというか騙されてるって気がするからそうじゃないだろうと言いたくなるし、だから何なのとさらにつっこまれれば、権利か義務ともっともらしいけどいい加減なことしか思いつかない。「義務」はないとして、「権利」はあながち空振りじゃないような気がしてくるわけで、だとしたら、そもそも男がのけ者にされているのが気に食わない。


第四章に続く


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